☆島津保雄氏=大正9年卒、8陽会 神戸二中卒
大正14年関西学院高商部卒
元関西六大学(関西学生連盟)野球審判部長
平成元年(1989)8月21日肺癌のため死去、享年88歳 |
神戸二中、関学高商部を通じて名遊撃手として活躍した。大正4年神戸二中が「第1回全国野球大会」に出場した時には1年生。レギュラーとして出場するようになったのは4年生の大正7年。その年の兵庫予選で7番・遊撃手。翌8年の県予選は6番と5番を打ち遊撃を守っている。
関学高商部ではいきなり1年から7番・遊撃手として出場、華麗な守備でスタンドを沸かせた。
高校野球の春夏甲子園大会で審判を務めるなど学生野球の審判員育成に尽力した。
【島津保雄氏の思い出】
昭和63年6月7日付朝日新聞に〔第70回全国高校野球選手権記念兵庫大会に
寄せて〕
球音は「原田の丘」から−というテーマーで一年生でベンチ入りしていた島津保雄氏の思い出話が掲載されているので取り上げることにした。
神戸市灘区の王子運動園。幼稚園児たちが列を作って滑り台の順番を待つ。その下に古い石段が13段。73年前の大正4年。第1回全国中等學校優勝野球大会の予選(兵庫大会)はこの場所で産声をあげた。石段は当時の名残を唯一、今に伝える。「原田の丘」と呼ばれ、關學のグラウンドだった。この丘で第1回と第2回の兵庫大会が開かれた。
第1回の参加校は神戸一中(県神戸高)神戸二中(県兵庫高)神戸商(県神戸商)伊丹中(県伊丹)關學中(關西學院高等部)それに御影師範と姫路師範(ともに神戸大學の前身)。第2回は新たに姫路中(姫路西高)凰鳴義塾(篠山凰鳴)が加わり、伊丹中が参加しなかった。
◇神戸二中(県兵庫高)横綱(關學中)を逆転し優勝
知る人少ない全国大会秘話◇
外野は縄を張っただけ。内野の観客席は板張りの階段。野っ原のような大阪・豐中球場で大正四年八月、全国から十校が参加して、第一回全国中等學校野球大会が開かれた。兵庫代表神戸二中は第一戰で早稻田實業と対戰した。試合中、神戸二中の選手たちはもうひとつの“敵”に悩まされていた。
当時、一年生で控えとしてベンチ入りしていた島津保雄さん(87)は打ち明ける。「みんな守りを終えてベンチへ戻るたびに裏の便所へ駆け込んだんですよ。ものすごい下痢でね。前日宿で食べた魚があたったらしい。下半身には全く力が入らんかった」。結局、安打はわずか二本。2−0で負けた。
当時の選手は既に亡く、この秘話はいまでは島津さん以外知る人はいない。
島津さんの話は続く。「もっと忘れられない試合はその時の兵庫大会の決勝でね。相手は關學中。關學中といえば当時、東京の大學チームと互角にわたりあう横綱。
勝てるとは思っていなかった」
◇幸運のサヨナラ◇
予想通り九回表まで2−0とリードされた。その裏、二壘打などで同点に。なお一死二壘で遊ゴロが一壘へ送られ、一壘手がアウトカウントを間違えたのか、拝み捕りして動かないのを見て、二壘走者が一気に生還した。むしろ旗を振り、太鼓を打ちならす二中応援団。「いやぁ、大変な騒ぎでしたよ」。島津さんの目が輝き、言葉に熱がこもる。
島津さんは關學、社会人と野球を続け、昭和三十年から二十七年間、八十一歳まで關西六大學野球連盟の審判委員長を務めた。今では耳も遠く、のどを手術したため、声も聞きとりにくい。「でもね、感激の試合というのはあの試合の後にも先にもなかったよ」
島津さんは二年前(昭和61年)から、大阪府と奈良県の境に連なる金剛山地のふもと、大阪・河南町の府立老人ホーム「河南荘」で、野球一筋だった人生の思い出に浸りながら、静かな余生を送っている。
◇一瞬のひらめき◇
その河南荘に二年前、野球部OB会「武陽野球倶楽部」の名誉会長、大橋政一さん(77)=神戸市垂水区西舞子4丁目=が島津さんをたずねた際、現役選手に伝えてほしいと島津さんがいった言葉がある。「野球は頭だ。一瞬のひらめきが勝敗を左右するのだ」
大橋さんは第十四回兵庫大会(昭和三年)の準優勝投手。決勝では甲陽中と延長十回を戰って敗れた。その時の遊撃手が三井物産相談役でこのほどNHKの次期会長に内定した池田芳倉さん(77)
「大橋さんは名投手でね。準優勝できたのも彼の力に負うところが大きいよ。負けた時は悔し涙があふれてね」と振り返る。
◇また野球ができる◇
大橋さんは戰前は横浜高商や社会人野球で鳴らし、戰後は日本高野連の評議員や兵庫県高野連の顧問を務めた。戰時中は、神戸にあった県立医學専門學校で教官をしていた。終戰の玉音放送を聞いた時、真っ先に「これでまた野球ができると」思った。
終戰直後、神戸駅前に海産物の店を開き、そこを社会人「全神戸野球団」の事務所とした。復員してきた野球選手に呼びかけてチーム作りに奔走。昭和二十年十一月十八日、西宮球場で、京都、大阪、神戸の都市対抗リーグ戰の開催にこぎつけた。これが戰後、關西初の公式野球試合だった。
その活動ぶりを知った日本高野連の故佐伯達夫・前理事長らから協力を要請され、二十一年の戰後初の大会では、全国から集まった選手の宿舎や道具、食事の世話に走り回った。
神戸二中は戰前、兵庫大会で優勝一回、準優勝二回、四強進出三回。戰後は春の選抜大会に四回出場しているものの、夏の大会では、二十三年の第三十回兵庫大会で準優勝したのが最高で、その後は四強入りが一回だけといまひとつ。(以下略)
《武
陽》
[第三回扇港野球大会]
◎對神戸一中
神戸二中 000 300 000=3
神戸一中 112 020 00A=6
打安犠三四補刺得
〔二中軍〕撃全牲 殺殺
數打球振球數數點
4 箸 倉 41010120
6 田 中 41000120
9 藤 原 30110020
7 兒 島 41010111
1 今 村 40010931
2 睦 好 41010191
3 岸 本 41010010
5 上 村 30010110
8 橋 本 30010030
合計 33518014243
〔一中軍〕
8 鈴 木 51020000
3 梶 500100100
1 久保田 300111301
5 坂 野 21002011
2 井 上 41000382
6 平 川 40020231
4 別 所 41010120
9 多 木 20002021
7 石 本 40010010
合計 33408519276
前に一中と戰ひて敗れたる我軍は悲憤やる方無く、空しく鐵腕の鳴るを覺えしが此處に神戸又新主催の扇港野球大會に招かれて又も一中と干戈を交ゆ。夫より選手は猛練習を積みて必勝を期し、應援團も亦熱心に練習して只管期日の至るを一日千秋の思を以て待つ。
大正四年十月二十九日。朝來好天氣にて昨日の風も凪ぎて眞に野球日和たり。兩軍共に關西球界の花形にして其の技倆伯仲の間に在り、此の好取組を見逃がさじと球狂は早くより東遊園地に詰寄せさしもに廣きグラウンドの周圍も人の山を築けり。
午後二時五十五分一中の應援團入場し之に後るゝ事三分にして敵の選手入來る。我選手は二時五十分入場し、應援團は三時を過ること五分にて入場し一壘側に陣取り彼は三壘側に陣取る。三時二十四分鹿島市長始球式を行ひ同時二十五分我軍の第一打手箸倉悠々としてボックスに現る。
第一回。箸倉二壘を過まらしめて生きしも二壘を盗まんとして刺さる。田中投手を襲ひて死し藤原三振す。敵軍代り攻め鈴木遊撃を衝いて生き直に二壘を奪ひ一死の後大膽にも三壘をステールせんとし睦好よりの投球に遇ひて三壘線上の露と消ゆ。
久保田、坂野四球を利し續く井上の凡飛球を右翼手失して久保田本壘に入りしも平川投手飛球に斃る。
第二回。兒島投手の失に一壘に出で、今村右翼飛球、睦好三振の後二壘を盗みしも岸本右翼に大飛球を呈して残壘。敵軍別所二壘に凡打し多木先づ遊撃を過らしめ石本二壘の失に出で續く鈴木のライナーを橋本失して多木生還す。
梶二壘を衝けば箸倉二壘に投じて鈴木をフォースアウトたらしめ田中之を一壘に送り梶を刺し美事なるダブルプレーを演じぬ。
第三回。上村左翼飛球に死し橋本、箸倉相續きて三振す。我軍代り守る。久保田右翼に凡打の後坂野中堅に安打し井上二壘を襲ひて生き平川三振して退き、別所の遊撃越の安打に坂野生還し左翼よりの投球を捕手逸して井上生還す。多木四球に出で走者は三壘及二壘にありしも石本投手飛球に死して残壘。
第四回。敵既に四點を獲たるに反し我軍一も算する所なし。田中先づ三壘を猛襲して生きしも二壘を盗まんとして成らず。藤原遊撃飛球に斃れし後強打者兒島ボックスに現はれ好球を待つ事久しく二ストライク二ボールの後長棍一打すれば美事左翼の頭上を越す本壘打を戞飛し、我軍此れに依りて士気大いに昇り今村二壘の失に生き睦好の中堅右翼間を抜く二壘打に今村牙城に入り續く岸本左翼越の三壘打を飛ばして睦好生還す。上村三振して岸本残壘。敵代り攻めしも鈴木、梶、久保田盡く本壘の露と消ゆ。
第五回。一死の後箸倉の中堅安打を中堅手逸して、三壘を獲しも田中のバントに本壘に刺され藤原又Pゴロに死す。坂野四球を利して出で直ちに二壘を奪ひ井上の安全球に三壘を得。續く平川三壘にグラウンダーを呈し上村之を取りて本壘に疾走せる坂野を刺す。別所三振し多木の一壘グラウンダーを壘手逸して井上、平川轡を連ねて生還す。石本三振して多木残壘。
第六回。兒島三振し今村ナットアウトに斃れ、睦好遊撃の失に生きしも一壘に於て刺さる。鈴木一壘越の安打に出でしも後援續かず。
第七回。岸本三振し上村、箸倉各々遊撃二壘を衝いて成らず。敵軍代り攻めしも井上中堅飛球、平川本壘に立往生をなし別所右翼手の失に一擧二壘を得しも今村よりの牽制球に二壘の露と消ゆ。
第八回。日は漸く西山に傾き初め、應援は愈々猛烈にして戰局に近づく。箸倉投手に匍球を呈して死し、田中二壘越の安打に一擧二壘に進み藤原の犠牲球に三壘に至る。續く兒島熱球を遊撃に送りしも一壘に斃れて、田中残壘。多木四球に出で盗壘して二壘に在りしも石本中堅飛球、鈴木三振し梶左翼に飛球を呈せば兒島悠々として之を収む。
第九回。我軍最後のインニングなり。今村遊撃を襲ひて斃れ睦好投手グラウンダーに死し續く岸本の飛球を坂野危く捕へて萬事休し遂に六A對三にて敗る。
我軍は一中と四度戰ひて四度敗る。然れども其の實力に於ては彼に勝るとも劣らず。唯時運の然らしめしが故なり。此の戰に於て我軍は守備よりも打撃力勝り屡々タイムリーエラーに依りて敵の得點をせり。今後練習に練習を積みて來る年には戰ふ毎に勝利を獲得して會稽を恥を雪がれん事を希望す。
※《武陽》では〈箸藏〉と書かれていますが「同窓会名簿」及び「武陽野球部倶楽部名簿」によると〈箸倉〉となっているのますので〈箸倉〉に統一しました。
(野球部大會記事)
十月十五、六、七日の三日間本部大會開催の筈なりしも不幸にして十七日は雨天なりし為め第六回以後は十一月七日に至り終了するを得たり。此の間に我部選手は又新日報主催の野球大會に出場せしが其の記事は便宜上先に廻し大會記事をこゝに一纏とせり讀者之を諒せられよ。
番組得點次の如し。
〔第一回〕大正4年10月15日 自午後2時20分 至午後3時30分
審判 今村、上村
〈二三四年混合試合〉
吉田忠一 P 古家 新
梅谷廣治 C 谷口廣治
上田正實 TB 廣瀬永造
近藤喜久治 UB 名村幸一
安口吉三郎 VB 高瀬芳松
大崎源三 SS 岡田春之助
山本美好 LF 大西初夫
吉岡諒一A CF 網谷繁夫B
小原博一 津島悟巳郎B
倉内眞次B RF 下村清三B
2 得點 7
6 回數 6
(備考 姓名の右横にある數字は年級を示す)
〔第二回〕大正4年10月15日 自午後2時20分 至午後3時30分
審判 睦好、岸本
〈二年級内試合〉
清水 正 P 松本為一郎
山本 茂 C 加納丑郎
桧垣秀雄 TB 奥村隆三
山口義男 UB 西田成則
山田金作 VB 飯島 計
下村榮一 SS 田中 勝
今治一雄 LF 上西宗助
吉田敏夫 CF 丸茂 喬
魚井龍太郎 RF 橋本秀夫
2 得點 8
7 回數 7
〔第三回〕大正4年10月15日 自午後3時30分 至午後5時0分
審判 橋本、箸倉
〈三年級内試合〉
岸本胤夫 P 村田雄二
松尾亥一 C 森本壽雄
有馬大五郎 TB 有馬精之助
黒田敬之 UB 加藤 章
三浦節次 VB 澤田新倉
木村 茂 SS 兒島一士
齊木壮一郎 LF 佐伯彌三郎
中井勝三 CF 吉本吉三郎
和田富雄 RF 稻本國雄
2 得點 4
7 回數 7
〔第四回〕大正4年10月16日 自午後2時0分 至午後3時30分
審判 田中、兒島
〈四年級内試合〉
橋本一男 P 睦好安夫
藤原英夫 C 武岡四郎
小野戌雄 TB 柴田主一
門川俊三 UB 大塚次郎
内海忠良 VB 瀧川清一
箸倉史樓 SS 今村幡象
由良基夫 LF 横川豐治
森本良三 CF 田中 稔
下村新次郎 RF 橘 重雄
4 得點 14
6 回數 6
〔第五回〕大正4年10月16日 自午後3時30分 至午後4時45分
審判 睦好、橋本
〈五年級内試合〉
寺見有志雄 P 上村隆之介
田中勘吾 C 後藤 雅
島田秀三郎 TB 前田 實
呂享一郎 UB 宮川孫一
増田 甫 VB 島 寅雄
楠 保平 SS 尾崎健一
河島季夫 LF 山本慶治郎
青木喜代治 CF 坪田二郎
河原常次郎 RF 阿邊善次郎
6 得點 9
7 回數 6
〔第六回〕一年一組(C)對一年二組(C)第一本壘にて
大正4年11月7日 自午前8時30分 至午前8時55分
審判 田中、今村
〈一年二組〉 團名 〈一年一組〉
前芝確三 P 島田 健
永田哲一 C 松浦伊三郎
臼井幸太郎 TB 小畠信夫
財田 稔 UB 竹廣勇倉
須方正富 VB 柴山義太
庵 政三 SS 泊 猛
杉本 敦 LF 名村高次
新田義清 CF 谷 尚一
長澤 RF 新田
2 得點 5
2 回數 2
〔第六回〕一年三組(C)對一年四組(C)第二本壘にて
大正4年11月7日 自午前8時30分 至8時55分 審判 睦好、岸本
〈一年四組〉 團名 〈一年三組〉
一柳信二 P 小林 進
小林好經 C 朝長仙一郎
谷中進也 TB 松村一雄
谷口庄一郎 UB 高木祐康
浮田慶一 VB 住谷市太郎
小畑虎一 SS 山崎 琢
酒井治雄 LF 武井陸雄
福井久吉 澤田英二
山本良雄 CF 横溝正夫
前野正博
柴田 稔 RF 中村信三
木村夏雄 稻垣正夫
近田一央
3 得點 6
3 回數 3
〔第七回〕一年三組(B)對一年四組(B)第一本壘にて
大正4年11月7日 自午前9時 至9時45分
〈一年四組〉 團名 〈一年三組〉
松浦 卓 P 黒田淳爾
柳川芳矩 C 岸 誠一
白井次郎 TB 則光貫一
斎藤福一 UB 藤井幸夫
則光利一郎 VB 横山蓉次郎
村田信一 SS 内海武尾
覺前睦夫 LF 谷尾玄一
戸田 勇 井上兼彦
森崎慶三 CF 有竹修二
森浦 貞
田中健一 RF 正直秀一
杉村守清
1 得點 5
6 回數 6
〔第七回〕一年一組(B)對一年二組(B)第二本壘にて
大正4年11月7日 自午前9時 至午前9時45分 審判 箸倉
〈一年二組〉 團名 〈一年一組〉
小川榮男 P 友成静雄
長谷川專治 C 近藤大助
小塚甚之助 TB 田中
吉住藤雄 UB 芝好貞治
田家清次 VB 山村信三郎
宮下豐太郎 SS 飯田義臣
門屋尚一郎 LF 新野荘一
太田大二郎 芝田幸雄
山下 毅 CF 加堂定一
荒井弘蔵 武本延治
内藤美代治 RF 三宅 保
吉弘早苗
10 得點 7
2 回數 2
〔第八回〕一年三組(A)對一年四組(A)第一本壘にて
大正4年11月7日 自午前9時40分 至10時22分 審判 田中、睦好
〈一年四組〉 團名 〈一年三組〉
分銅昌雄 P 藤田顯美
長田松二 C 菊水壮三郎
野澤 勇 TB 島津保雄
鷲尾宥三 UB 神尾湛一
瀧 太郎 VB 加茂正光
宮田義治 SS 大島芳生
森本芳雄 LF 岸本武雄
石原健一 CF 鹽谷長男
木佐貫平一 RF 大越盛兒
6 得點 5
3 回數 3
〔第八回〕一年一組(D)對一年二組(D)第二本壘にて
大正4年11月7日 自午前9時40分 至10時10分 審判 箸蔵、松尾
〈一年二組〉 團名 〈一年一組〉
柏原勝重 P 村田市左衛門
中村雄二 C 古谷宗武
多田 克 TB 内田文之助
山中静雄 UB 岡田晋吾
種村州三 VB 直井悦雄
矢倉育太郎 SS 醉月英三
吉森馬太 LF 菅野左一
森 榮次 小澤隆次
中島 CF 瀬尾忠雄
大日喜三 飼手武次
吉本庄次郎
宮田一郎 RF 生駒 功
伊藤一雄
6 得點 1
3 回數 3
〔第九回〕一年一組(A)對一年二組(A)第一本壘にて
大正4年11月7日 自午前10時22分 至11時10分 審判 上村、今村
〈一年二組〉 團名 〈一年一組〉
木村 保 P 松崎俊二
松原喜政 C 畑 義雄
山本太郎 TB 田中泰三
五百井正次 UB 傳谷二郎
鈴木俊二 VB 葛野作太郎
高橋舜一 SS 織戸芳太郎
山口佐一郎 LF 中村嘉蔵
板野隆成 CF 堀 邪之助
瀧山 巌 RF 井上 茂
6 得點 3
5 回數 5
〔第九回〕一年三組對一年四組(D)第二本壘にて
大正4年11月7日 自午前10時10分 至10時50分
〈一年四組〉 團名 〈一年三組〉
神田孝一 P 吉保秀文
上杉利行 C 岡田元三
笹又權一郎 TB 佃 文次
重成 哲 UB 村岡元一
白崎都香佐 VB 渡邊英二
竹中政吉 SS 貴谷義一
萩山健吉 LF 石崎達雄
寺田正之 濱田頼三
和田敬吉 CF 縄舟信男
中野三五
井波喜久雄 RF 小高根健一
西田徳重 榎本三郎
6 得點 14
4 回數 4
〔第十回〕三年級選手對二年級選手
大正4年11月7日 自午前11時20分 至午後0時45分 審判 箸倉、橋本
〈二年級選手〉 團名 〈三年級選手〉
三宅保男 P 松尾亥一
北澤正三 C 岸本胤夫
片山豐次 TB 村田雄二
西村壽而三 UB 有馬大五郎
頼 敬次 VB 有馬精之助
山脇繁夫 SS 兒島一士
楯谷龍一 LF 木村 茂
株本 保 CF 加藤 章
田井 達 RF 森本壽雄
6 得點 7
6 回數 6
〔第十一回〕五年級選手對四年級選手
大正4年11月7日 自午後0時50分 至2時25分 審判 兒島、岸本
〈四年級選手〉 團名 〈五年級選手〉
柴田主一 P 上村隆之助
睦好安夫 C 田中勘吾
小野成雄 TB 前田 實
箸倉史樓 UB 増田 甫
橋本一男 VB 島 寅雄
今村幡象 SS 寺見有志雄
武岡四郎 LF 後藤 雅
藤原英夫 CF 宮川孫一
瀧川清一 RF 河島季夫
7 得點 1
6 回數 6
〔第十二回〕職員對一年級選手
大正4年11月7日 自午後2時20分 至午後3時30分 審判 田中、今村
〈一年級選手〉 團名 〈職員團〉
木村 保 P 小野先生
松原喜政 C 岩佐先生
藤田顯美 TB 坂本先生
松崎俊二 UB 窪田先生
菊水壯三郎 VB 三朋先生
高橋舜一 SS 栗田先生
島津保雄 LF 片山先生
森本芳雄 CF 野崎先生
長田松二 RF 水谷先生
5 得點 8
5 回數 5
4陽会(大正5年卒)
志水 新次 投手
島 寅雄 二塁
澤田 健一
上村隆之助 三塁
寺見有志雄 中堅
|