大正4年(3陽会)1915年

NO5

〈朝日新聞〉
○観衆を熱狂せしめた○
 =第三日の優勝戰=
△應援の大喇叭

 七日は、愈々最後の優勝決戰、應援團も並大抵の手温い手段では迚も承知されぬと見え二中側は紙製の大喇叭十個ばかりを肩にした一組を先登に運動場さして乗り込み、關西方は只一つだけれども之は馬鹿に大きな正真正銘の大喇叭を引き擔いできた、何様隊員の面面は頭髪の端から爪先まで百度以上に熱し切ってゐることゝて聲援の調子もプレー開始匆々から千變萬化の秘術を盡した 。

△欄干から兩足
 西側から正面へかけ二三段乃至四五段を築いてあるスタンドは瞬く間に一杯の鮓詰となりお流れは例の樟の梢に鈴成りとなるだけでは足らず東側の石垣裏門の石柱の頭にも一面の人垣が築かれた、來賓席に宛てた中學部樓上も一人覗き二人覗きしてゐるうちに之も亦滿員となり露臺に溢れ出た連中に欄干より兩足をブラブラさせながら聲を嗄らして彌次りに夢中になってゐる者が澤山あった 。

△商賣はお留守
 應援團や委員などには間斷なく氷が配られて行くがそこまで手の届きかねる幾萬の觀衆は全く炎天に曝らされ詰め、森の近所に荷を据ゑた關西學院消費組合の氷店の女と新聞記者席に近いラムネやパンを賣る爺とがキリキリ廻ひとなって忙殺されてゐたのは無理もないが試合が佳境に入るに伴れ薩張客足が無くなった、

 けれどもその時分には肝腎の店番も戞々たるバットの音に驚かされてね果ては氷店の女までが一人立ち二人立ちして何時かは店はがらん洞パン屋の爺はラムネを草叢に悉く投げ出しそれを足臺に群衆の後から首を突き出してゐた 。

△二中熱狂す
 二中の關西軍と相見ゆるは前日の一中と同様の立場で復讎戰であるから二チームを撃滅して正に破竹の概有る關西軍に刄向ふの決心牢乎として固き處には背水の陣を敷いた古武士の趣が現れてゐたが味方の更に關西軍の堅壘を抜くこと能きぬ内に却て三回の表に於て二點を取られたので流石の應援團も気勢頓に落ちた様氣の毒な程であった

 然るに最後に決死の勇を振って攻め立てた甲斐あって一擧に三點を収めた忽ち勝となったのだから應援團は喜ぶまい事か、手の舞ひ足の踏む所を知らずといふ鹽梅で茣蓙や帽子や應援旗が雨霰と投げ上げられてゐた 。

△燦たる優勝旗
 金繍の光観衆の眼を射って崇嚴の気を戰場に添えてゐた委員席前の優勝旗は遂に二中軍の頭を飾る處となったのである、場の中央で厳粛なる優勝旗授與式が行はれる間にも二中軍の應援團は赤旗を打ち振って天に昇る様な歡呼の聲を揚げてゐたが式が濟むと選手を胴上げする、場内に應援歌を高唱する、場内は熱闘して居る中に見物に來てゐた一中の學生の「あゝ胸が空いた」と友達に私語してゐる者もあった、

 關西の應援團が森を抜けて退出するとき二中側は之を盛んに見送ったのは前日には勝ったが今日は敗けて居る胸中、そヾろにホロリとさせた、歡喜に充ちた二中應援團は其の後名譽の優勝旗を先頭に、選手を中にして元町通其他を練り歩き本社通信部前で萬歳を三唱して退散したのである 。
 


 

《学校人脈 二中、兵庫高》=神戸新聞総合出版発刊=から藤原英夫氏、大正6年
 神戸二中卒、5陽会を中心に当時の神戸二中野球部の姿を抜粋した。

 『年号が大正と変わった、その年の春、藤原は兵庫小学校から二中校門をくぐる。
 このころ、柔道、剣道、野球が準正課で、新入生はいずれかを選ばされた。
 五尺二寸(
157a)と小柄な藤原は、武道より球技の方が向いている、と考えた。
 もうひとつ、動機がある。小学生時代、東遊園地で外人クラブ神戸KRACの試合を何度か観戦したが、野球をやればあの連中と交際ができる、と思ったことだ。

 “甘い夢”は入部途端に吹っ飛んだ。連日千本ノックが襲う。夏休みは部員にとって地獄となる。一高に進んだ卒業生が同僚を引き連れてきた。四方八方からボールが飛び、コーチ陣のシッタを浴びる。照りつける太陽。疲労から貧血を起こし、練習中に二度、三度と倒れた。学業の方もきびしい。

 試験での成績は平均六十点が及第ライン。一科目でも五十点以下なら落第、二度続けば退学だ。当然ながら、退部者が續出する。二十人いた同期生も、全国大会出場時には藤原を含め四人に減っていた。(中略)

 二中チームは、大会前日、湊川神社に参拝。校長平沢金之助=故人=の引率で神戸駅から会場に向った。全国十地区の予選を勝ち抜いた代表校が勢ぞろいする。

 観衆は二千ほどだったか。鳥取中の外野手ははだし。内野手がグローブの代わりにキャッチャーミットを持つ学校もある。さすが、二中は都会地の学校だけにユニホーム姿は洗練されていたが、相手が悪かった。優勝候補筆頭の早実。大会初日の第三試合に対戦したが、0−2で完敗した。

 敗れたはしたが、全力をつくしたナインに涙はなかった。さわやかな表情で球場をあとにした。

 そのなかで、藤原は確実な捕球とバント技術が評価され、大会のベストナインに選ばれる。賞品の広辞林を胸に抱き、軽い足取りで帰路を急いだことを、きのうのように思い出す。

 二中から早大に進み、羊毛会社に勤めた。倒産を体験し、空襲に追われ、終戦直後には末娘を結核で失った。起伏の多い人生を、繊維ひと筋に歩み続けた。』

[關西野球大會](第2日)
 八月七日より大阪府下豐中グラウンドに於て擧行。それと同時に大阪朝日新聞社主催の全國野球大會に大阪、和歌山、奈良の一府二縣を代表して出場すべき優勝チームの選抜試合も附属して擧行したり。

◎對岡山中學野球仕合
 
大正4年8月8日(日)豐中 午前9時開始
 神戸二中 000 140 330=
11
 岡山中學 021 010 100=5

  ◇バッテリー(二中)今村−橋本
        (岡中)島村−荒木
 

 二中は前日關西學院を破り兵庫縣の優勝者となりし餘威を以て一氣に岡山を撃破せんとせしが岡山方もさるもの二回二中の無為なるに反して猛撃忽ち2點を占め三回に1點、五回に1點、七回に1點合計5點を得て氣勢大いに昂りしが二中軍四回より田中を遊撃に退かしめ第一投手今村之に代りて流石に岡山方の猛打を防ぎ味方は猛襲を以て四回に1點、五回に4點、七回に3點、八回に3點、合計11點を得、11對5にて二中の勝利に歸せり。岡中の打撃振ひ安打12を放ちしも及ばず。

《武  陽》
[關西野球大會](第3日)
◎對神戸一中野球仕合
 大正4年8月
11日(水)豐中  午後4時30分開始
 神戸二中 000 000 000=0
 神戸一中 030 000 00A=3
 

 八月十一日。關西學生野球大會に招かれて豐中に出陣す。岡山中學を一蹴に破りたる我が九勇士は元氣旺盛本日の好敵を見事討ち破らんと勉めども如何せん正投手は指に負傷ありて遊撃を守り又主将田中は昨日脚部をスパイクにて抜かれ進退意の如くならねど、押して投手を勤めしも結局三對零にて我が軍の敗に歸せり。左にその苦戰の跡を記さん。

〈朝日新聞〉
 連日の雨に延期となれる同大會第三日目は十一日午後一時より神戸一中對同二中の試合を行ふ事となりしも二中側は主将田中、投手今村負傷し居れるため試合困難なりとて棄権を申込みしも容れられず一壘の田中を投手とし今村遊撃に退いて午後四時半より試合開始、二回二箇の安打を受けたる後四球を連發して一擧三點を奪はれ結局三對零にて一中方の勝となりたり。

〈武  陽〉
 第一回。早稻田の齊土氏審判の元に四時三十分ゲームは開始され我が軍攻撃につくや今村投手を強襲せしもならず藤原は一壘グラウンダーに殪れ兒島右翼に名をなさしめて敵代り攻む。劈頭出でたる鈴木遊撃飛球に空しく平川三壘手の失に出でしも一壘に刺され井上左翼に飛球を呈して止む。

 第二回。田中フライを三壘手に得られ橋本投手グラウンダーに倒れ上村三壘越の安打に出で二壘を盗まんとしてならず。敵坂野投手の右を抜く痛烈なる安打に出で次いで梶も中堅に安打し次いで二三壘によるや久保田軟打せしも坂野を本壘に刺し別所の打ちそこねの球を一壘手失して滿壘となる。
 多木幸福にも四球を得續く石本、鈴木も四球を利し茲に三點を得らる。而して尚滿壘なりしも平川のPゴロに多木、平川ダブルプレーを喫して我が軍攻撃に出づ。

 第三回。箸倉二壘にゴロを得られて退きしも岸本二壘越の安打に出で右翼手の失に二壘に進み期待する所ありしも村田、今村共に凡打して止む。井上左翼を攻めて倒れ坂野遊撃ゴロに生きしも梶、久保田の凡打になすなし。

 第四回。兩軍共無為。

 第五回。橋本フライを三壘手に得られ上村三壘手の失に生き箸倉の二壘安打に送られしも岸本の三壘ゴロに上村フォースアウトされ村田の遊撃ゴロに岸本二壘にフォースアウトされて空し。一中凡打。

 第六回。我が軍奮闘せしもなすなく敵坂野遊撃ゴロに生き梶の遊撃ゴロにフォースアウトされ久保田のPゴロに梶、久保田共に生きしも別所凡打し多木三振して止む。

 第七回。橋本、上村共に三振し箸倉の遊撃ゴロに我軍陣を敷く。石本二壘安打に出でしも鈴木右翼手に名をなさしめ平川の遊撃ゴロに石本二壘にフォースアウトされ井上ファウルフライを捕手に得られて止む。

 第八回。我軍凡打。敵梶四球に出でしも續く三者凡打してならず。

 第九回。ラストインニングに入るや力戰せしも及ばず藤原三振、兒島遊撃ゴロに生きしも田中、橋本共にファウルを左翼に呈して萬事休す。