明治43年(1陽会)1910年

NO6

明治43年 9月23日( 金) 神戸二中
 御影師範 001 200 100=4
 神戸二中 103 000 001=5

          打安犠三四得
 〔御影軍〕  撃全牲 死
        數球球振球點
 1B 後 藤 410010
 2B 本 田 310020
  P 高 井 200211
 SS 玉 田 410011
 CF 富 田 400100
 LF 堀 口 300101
 RF 玉 田 300010
  C 松 本 210110
 3B 土 田 100121
   合 計 
 2640694 

        打安犠三四得
 〔二中軍〕  撃全牲 死
        數球球振球點
 2B 村 井 310111
 1B 藤 野 310111
 RF 井 口 420101
  C 田 寺 300010
  P 直 木 200200
 SS 藤 本 400000
 CF 天 野 320101
 3B 森 本 210200
 LF 松 本 300011
  合 計   
2770845 

◎對關西學院  (菅、増田稿)
 神戸商業學校の主催にかゝる關西聯合野球大會の招待を受け、秋高く馬肥ゆるの日、東遊園地に於て關西學院と雌雄を決す。四邊暗澹として殺氣天に漲り凄愴の感人に迫る。打波氏審判の下、我先攻に始まる。

 第一戰、我第一打手吉川、第二打手鍛冶無念にも阪野の手上に翻弄さる。續いて山崎四球に出でしも岡本小飛球に倒れ我軍代りて守る。敵軍吉川遊撃へグラウンダーを呈し一壘に進みしも、捕手村井の辣腕により二壘上に死す。柳田(兄)は遊撃へ、阪野はレフトへ飛球を送りて倒る。

 第二戰、村井遊撃ゴロに死し、茨木次でボックスに立つ。茨木空しく敵手に斃れむとするか、否彼の面上には滿々たる殺氣溢れ、為すあらむとの意氣敵を壓す、果然、戞然たる響と共に球は高く一壘の頭上を越え轉轉として右翼を襲ふ。是れ當日無上の安全球也。二壘を敏く奪ひしも、橿村の三振菅の遊撃フライに我軍無為に終る。敵軍三木のレフトのフライに倒れ、奥三振し明石も遊撃手の輕快なるモーションに刺さる。

 第三戰、井口、吉川、鍛冶續いて脆くも三振の辱を受く。敵投手阪野の得意思ふべし。我岡本又奮然として蹶起し、頼廣、柳田、高瀬を本壘の露と消えしむ。岡本、阪野の鐵腕はこゝに遺憾無く發揮されぬ。

 第四戰、山崎凡死を遂げ、岡本遊撃の失に乗じて二壘を奪ひたるも、憫に村井、茨木續いて倒れ我軍無為に終る。吉川Pゴロに倒れしも、柳田絶好のバントに出で二壘三壘を陥れ、更に本壘を得むとチャンスを待つ。阪野バントを三壘に送りて生き、柳田機を得悠々として生還す。三木ファウルフライに死せしが、奥、明石のヒットに阪野生還す。二點を得たる敵軍の意氣愈々壮也。されど頼廣三振し、兩人空しくスタンヂングとなる。

 第五戰、兩軍無為。

 第六戰、柳田バントに生き二壘を取り、阪野、三木のバントに迎へられて本壘に還る。奥ファウルフライに死せしも明石のバントに阪野生還す。而して奥悠忽として三壘を収め、将に本壘を奪ふべき勢あり。岡本の神腕何ぞ黙するに忍びんや、次に立ちたる打者頼廣を三振せしめ、高瀬の三壘グランダー、難なく茨木に仕止められしは痛快也。

 第七戰、回を重ぬることこゝに七戰、敵既に幾點を得たるに反し、我得る處無し。此現状を維持し數年來鍛へ來りし勞を水泡に歸せむとするか。殺氣は空に漲りぬ。腥風は戰士の身邊に荒びぬ。俄然熱烈なる應援歌は戰場の一角に油然として起りぬ。常勝の白旗の下に起る聲援は素也と雖も、溌溂の正氣滿々たり。

 渾然一大雷鳴の如く、天に響き地に應へ強く戰士のハートを劇せしむ。夫れ九名の戰士中、斃れて後已むの概あらざる者あらむや。而れども岡本空しくPゴロに死し村井三振し茨木四球に出で二壘三壘を奪ひしも、橿村の三振に事終りしは是天運乎。敵軍變って攻む。吉川空しく死し、柳田、阪野相續いて岡本の犠牲となる。岡本の強腕回の進むに従って愈猛を加ふと謂うべし。

 第八戰、菅四球を利し一壘に進みしも、捕手奥の為に二壘上に空しく残骸を横ふ。井口三振せしも吉川三壘一壘のミスに乗じ一擧二壘を収めし時、鍛冶セカンドオヴァーのヒットを打つ、校友恰も狂氣の如く歓呼すれど、戰運の趨く處人事の如何ともする處に非ず、勝に誇る明石の投球に本壘上に吉川の倒されたるは是非無し、かくて我等は遂に返討の非境に陥りぬ。

 顧れば二年前彼と雌雄を決し、十回のゲームにて一對0に敗れしが、二年後の今日、守備の堅實打撃の強勢を歌はるゝの今日、更に悲しむべき大傷を蒙りぬ。此天亡我、悲戰之罪と雖も、滂沱として下る九士の悲涙。潜然として之を圍繞する校友の頽姿。鳴呼悲しからずや。

 此日我武道部の選手武徳殿に大勝を博し、今や鬪ひつゝある校友の戰捷を祝せむとして來りぬ。かの戰場の一角を破り聲援は、實に是等人士の温情に發する也。斯く思ひ來る時は、選手胸中麻絲の亂るゝに似て、逆境の勇士は友の温情に泣かしめられぬ。成績左の如し。
 

明治431016日(月)東遊園地  審判 内波
 神戸二中 000 000 000=0
 關西學院 000 202 00A=4
 

       打安犠三四得
 〔關西軍〕 撃全牲 死
       數球球振球點
 SS吉 川 300100
 3B柳 田 302102
  P阪 野 302102
 1B三 木 301000
  C 奥  210100
 CF明 石 311000
 LF頼 廣 000300
 2B柳 田 200100
 RF高 瀬 200100
   合 計 
2126904 

       打安犠三四得
 〔二中軍〕 撃全牲 死
       數球球振球點
 2B吉 川 200200
 CF鍛 冶 210200
 1B山 崎 100110
  P岡 本 300000
  C村 井 100200
 3B茨 木 210010
 RF橿 村 100200
 SS 菅  200010
 LF井 口 100200
   合 計 
15201130 

◎對御影師範學校(第三回) (菅、増田稿)
 當日午後一時、選手一同市内楠社の中松の緑濃き墓前に會し、御影に向ふ。此日風強く神鳩高く中空に舞ひて、我戰勝を豫言するものゝ如し。岡本氏の審判の下に戰ふ。五回ゲーム也。

 第一戰、吉川先ず輕躯をボックスに運べば、觀衆鳴を静めて待つ。敵の投手高井の球緩急意の如く出で猛打者吉川遂に三振す。菅三壘にバントを送りて生き一壘の失に乗じて三壘に進む。山崎三壘へフライを呈して倒れしかば、菅あせりて三壘に進み、米田の刺す處となる。惜しむべし。我軍代て守る。

 後藤悠々としてボックスに現はれ、滿身の精力を盡して熱球に強打を加ふれば、鏗然たる餘韻を残して飛球は遥に中堅の頭上を過ぐ。鍛冶の妙手を以て而かも如何ともすべからず敵巳に我を呑むの氣魄あり。本田、高井Pゴロに倒れしが、玉田中堅に飛球を呈す。鍛冶之を手中に収めむとして果さず。後藤遂に生還す。富田の凡死に、玉田一壘上に茫然たり。

 第二戰、鍛冶四球を利し一壘に進み、岡本の三壘に直球を送りしと敵逸したれば、鍛冶驀然として二壘を奪ひ捕手のミスによりて生還す。我軍の英氣凛然として将に振はむとす。井口投手のボークにて一壘に、岡本三壘のミスに生還す。井口三壘に迫りしも、田寺二壘に小飛球を送て死し、橿村、茨木三振して止む。敵の堀内四球を利して出でしも、玉田三振し松本、土田同じく中堅に飛球を呈して止む。

 第三戰、吉川三壘の失に出で菅の犠牲球に三壘に進み、盗壘に盗壘を重ね躍進又躍進し遂に牙城を陥る。山崎左翼に雲うつ大飛球を送りて死し鍛冶三振す。後藤遊撃の失によりて一壘を得しが二壘に倒れ、本田Pへの飛球に死し、高井一壘を進みしが平田のPフライに為す無し。

 第四戰、岡本、井口續て三振し、田寺亦Pフライに倒れる。富田、堀田、玉田相續いて一壘に倒れしも哀也。

 第五戰、橿村バントに倒れしが、茨木遊撃の失に加ふるに盗壘の敏を以てし、一擧三壘に迫り虎視眈々として本壘の好餌を窺ふ。吉川のPゴロに死す。菅ボックスに立つ。此時に際せる責任實に重し。遂にバントを送って生き、茨木を生還せしめしが惜しむべし過て二壘に倒る。斯くて四對一にして勝利を得。六甲峰上白雲青雲飛び交うて我凱旋を歓迎す。
其成績左の如し。

明治431016日(日)御影師範=当日ダブルヘッダー=  審判 岡本
 神戸二中 021 01=4
 御影師範 100 00=1

       打安犠三四得
 〔御影軍〕 撃全牲 死
       數球球振球點
 1B後 藤 310001
 2B本 田 200100
  P高 井 200000
 SS玉 田 200000
 CF富 田 200000
 LF堀 田 100010
 RF玉 田 100100
  C松 本 200000
 3B土 田 200000
   合 計 
1710211 

       打安犠三四得
 〔二中軍〕 撃全牲 死
       數球球振球點
 2B吉 川 200101
 SS 菅  302000
 1B山 崎 200000
 CF鍛 冶 000111
  P岡 本 100110
 LF吉 川 200000
  C田 寺 200000
 RF橿 村 100100
 3B茨 木 100101
  合 計 
 1402523 

 創立當時異彩のある野球部を標榜し、慨然として濁流頽波の中に、至誠の部旗を翻しゝ部員の意氣は壮なりき。其壮貌雄姿に接したる者にして一度、昔日の意氣既に沈衰し新興の氣戈既に失墜せる今日の部員を見れば誰か秋風落日の感を深くせざるものぞ。

 或者之を嘆じて曰く、盛者必衰は天也。命也。如何ともすべからず。と、

 日出でゝ月没し、春去りて夏來り秋逝いて冬到る。之ぞ天道の循環、自然の運命也。天の支配する處にして人力の如何ともすべからざるもの也。而れども盛者の衰ふこと之と同一視するは不可也。遠く三千年の歴史に溯り、廣く東西五大州に亘りて、人種國家の興亡、隆替、盛衰を按ずる時は、盛者の衰ふるは恰も天の命に依るが如き觀あり。

 而れども、そは皮相の觀にして真相を究めし者と言う可からず。如何となれば、其人にして若し其史實を更に深く研究する時は、人種の興隆し衰頽する所以は天に在らずして人に在るを知るべければ也。抑も天何の恨有りて盛者を衰へしめむ乎。之天の誣ふるも甚しき者也。唯、人為の因ありて此の果を見るに至りし也。

 而らば野球部衰頽の因は之を天に歸せずして人に求むべし。而して其人為的因たるや、一部は前部長池田先生の任を退かれしに依ると雖も、大部は我觀る處を以てすれば部員一同平和に眠り殷盛に酔ひ相率ゐて事を怠りしに外ならず。我野球部を益々殷盛に愈隆盛にあらしむべき我等が、この沈衰の因を醸しゝは憂憤の感に堪へざる處也。

 悲しむべきは悲しむべしと雖も、之を天の致しゝに比すれば余等は寧ろ幸福也。天若し斯に到らしむるならば、こを挽回せしむるは殆不可能事也。而れども人為の因は人之を除去し得べし。殊に部員の怠慢之を導きしとするならば、部員一度覺醒して奮勵努力する時は、前年の殷盛を見る可きこと近きに在り、希くば部員相激勵して奮起せられむことを。