◎對報徳商業戰
昭和12年10月2日(土)神戸市民運動場
審判・赤石、田淵
報徳商業 000 000 001=1
神戸二中 100 000 01A=2
〔報 徳〕 〔二 中〕
8 守 山 3安打2 4 立 花
9 灘 本 27打數26 3 青 田
7 横 田 1得點2 1 池 田
1 柴 田 9四球11 6 山 本
2 江 平 3三振7 2 中 村
6 今 井 3盗壘1 9 橋 本
5 島 8 芝 山
3 廣 野 7 枝 吉
4 和 田 5 村 上
〔報徳商業〕
(一回)守山三匍、灘本四球、横田の二匍に併殺。
(二回)柴田投手足下を破り、江平も三匍失に續いたが今井の右飛に併殺。
(三回)一死後和田四球、守山遊飛、灘本四球、横田右飛。
(四回)二死後今井四球、島二飛。
(五回)廣野三振、和田四球二盗、守山の投匍に三壘寸前刺され、守山二盗成らず。
(六回)横田四球、柴田死球、江平の三直に横田併殺。
(七回)三者凡退。
(八回)一死後守山遊匍失に生き二盗捕手悪投に三進、灘本四球、横田中前安打し守山
を還し、柴田打者の時灘本投手牽制に刺され、柴田も四球に續いたが江平の二
匍に封殺。
(九回)今井右前安打に出たが後續なし、一點を得たのみ。
〔神戸二中〕
(一回)立花投飛、青田投匍悪投に生き池田四球、山本三匍、中村捕手の妨害に滿壘、
橋本の四球に押出し、芝山三振。
(八回)中村二壘左を抜き、橋本四球、芝山一壘上に猛打を放ち、無死滿壘、枝吉三
振、村上四球に中村押出され、立花投匍、青田遊匍に止んだが計二點を得て
勝つ。
◎對三田中學戰
昭和12年10月3日(日)神戸二中
審判・石田、田淵
三田中學 000 000 000=0
神戸二中 000 000 001=1
〔三 田〕打得安盗三四失
6 前 田4000102
3 澤 田3000200
1 都 賀3000000
7 谷 野3000100
2 平 松2001010
8 鶴 殿3000100
5 稻 富3000200
4 福 島3000100
9 齋 藤1000100
9 兒 島2000200
計 270011112
〔二 中〕打得安盗三四失
4 立 花4000001
3 青 田4010000
6 山 本4000001
2 中 村4000100
1 池 田2110120
9 橋 本3000000
7 枝 吉3011000
3 小 林3000100
5 村 上3000000
計 30131322
☆高原希国氏 昭和13年神戸二中卒、26陽会
大正9年4月17日生まれ |
武陽原頭 空高く聳える ユーカリと、25周年の昭和8年に入学した26陽会の一人です。小学校を姫路の飾磨小学校から神戸の灘小学校に転校、少年野球で神戸市、兵庫県で優勝したメンバーの一員でしたので、入学式当日から馬場野球部長の指示で練習に参加しました。
そのころの二中は低迷期にあって昭和10年の秋には開校以来最低といわれるほどでした。その3年の秋に山名野球部長のもと主将に任じられた私は“強い二中”の復活にナイン全員とともに懸命の努力を続けました。
先輩からは叱られ、猛練習に猛練習を重ねた結果、年とともに力が付き始め対外試合も盛んに行うようになりようやくチームに活気が出始めました。昭和11年10月に大阪の扇町商、11月に市岡中、また京都の京都一商、翌12年5月に大阪の興國商と次々強豪校と対戦し着実に元の二中に戻って行きました。
《不世出の大投手》と言われる京都商の沢村栄治投手とも対戦したことがありました。確か彼が1年生のときだと覚えています。また西宮球場の球場開きの試合で甲陽中と顔が会い別当(薫)投手と対峙したことも忘れられない思い出として年老いた今もはっきりと脳裏に焼きついています。
あのころのことを思い浮べると懐かしさと同時に血がたぎって若返えってきます。20年の中断のあと昭和12年に一中との定期戦が神戸市民球場で復活といろんな出来事と遭遇出来たのは幸運と言えるでしょう。
しかし、世の中は徐々に暗い方に向って行きました。年と経つにつれて戦雲は広がり軍国主義へと突き進んで行きました。昭和12年、私の最後の予選は思いもかけない投手の乱調で1回の表に10点を失い1回戦敗退、これが人生の転機となり、海軍甲種飛行予科練習生として海空軍に身を投じ、太平洋戦争の緒戦の主力となりました。
海軍に入ってからも野球は続け“名選手”?として活躍、戦後オーストラリアの捕虜になってからも得意の野球で捕虜交換に貢献しました。復員後神戸外大(神戸市外国語大学)に入学してからも野球との縁は続き外専大会で優勝、証券界でも全北浜の選手兼監督として、皆の先頭に立ち野球を通じて証券界の発展に尽くしました。
《野球道こそ人生のバックボーン》私の座右の銘です。
※平成12年7月3〜7日の5回にわたって大阪産経新聞の夕刊に『北浜の古武士』高原希國の半生=という航空兵のときの体験記事が掲載されている。
それによると乗っていた飛行艇が墜落実家には戦死公報が。昭和17年6月に葬儀を終え立派な戒名までついていたという。
捕虜の間《高田一郎》と名乗っていたため日本に安否が伝わらなかったわけだが、しばらく神戸で『高原の幽霊が徘徊している』とうわさが流れた。晩年は北浜で〈最後の相場師是川銀蔵〉と組んでの相場師としての活躍は有名。
ここでその全文を紹介することが出来ないのが残念−波乱万丈の人生を送って来た高原希國氏であるが、その間一時も野球のことは頭の中から離れたことはなかった。
(編集者記) =平成12年11月3日=
☆昭和十二年度野球部員☆
四年級=山本一郎、池田精一、芝山貞雄、青田八郎、山崎一朗、宮森 勲
三年級=枝吉 完、立花照也、中村善泰、小林幹治
二年級=橋本越朗、村上安正、鈴江喜伴、堺 慶一、谷川 浩、有森一雄
一年級=中井一男、前田正夫、金次義雄、金 誠燻、赤田 保
(追記)左記の先輩の訃報に接し謹んで哀悼の意を捧ぐ。
野田和重兄(二十二回)道下久男兄(二十四回)
26陽会(昭和13年卒)
高原 希国 三塁
矢野 啓司 投手
上山 壮三 右翼
尾崎 次雄 右翼
葛西 正平 三塁
津田 義男 二塁
木村 治 捕手
奥田 弘 中堅
藤井 豊 左翼 |