明治42年(1陽会)1909年

NO2

 第二戰劈頭菅出づるや、木村益々猛球のスピードを速めて菅を倒し、村井亦菅の二の舞を演じ、前川、木村の投ずる球を打てども打てども中らず。遂に脆くも、本壘に其の屍を曝して止みぬ。吾軍守備益々堅にして、敵亦抜くべからず。斯くのごとくにして第三戰は終り敵の攻撃の色益々見えて凄じくも凄し。

 塚本三壘に熱球を送るや、如何にせん村井之れを止むるに術もなく、惜しくも塚本を生かしぬ。日野續いて弱球を一壘に送りて、塚本をして三壘に進ましめ、而して福井の弱球直木をして名をなさしむ。

 續く木村泰然といで一氣一振、忽ち安全球を飛ばして、三壘を奪はんとせるも、老将村井投球正鵠。邁進し来りたる木村を三壘に刺しぬ。此所虎口を逃れて胸を撫で下して我軍代り攻む。先鋒伊井小飛球を遊撃に送りて死し、續く藤野、井口敵将木村の劔に懸りて枕を列べたるこそ悲しけれ。

 第四戰の幕は開かれ、機漸く熟して松下セーフヒットにいでゝ、捕手の失によりて二壘に進み、亦田村の一戞、直木の投ずる球を右翼に送りて、松下悠々として牙城に入りぬ。井上亦も犠牲球を右翼に送りて、田村悠々として本壘に入る。

 此所に於て我軍将に陣形亂れむとせしかば、漸く之を制したれども今井四死球を利するや、松尾に依りて漸く今井を生還せしめ、松尾亦牙城を陥れんとせしも、我自重の健兒漸く本壘に彼を刺したるこそ捕手井口の手練といふべけれ。

 塚本の一壘に死するや、事止みて攻撃軍となる。武陽の士は先鋒横川先づ右翼は大飛球にて成功せんとせしも、脆くも倒れて、續く直木遊撃に打ちたる熱球は吾が軍をして起たしむ。而して二壘難なく陥り、中村亦もや遊撃に猛球、直木長躯して本壘へと馳け込みぬ。中村一壘に死し二アウトをなしたれど、何れ劣らぬ九勇士意氣益々旺盛、菅遊撃の失によりて生き、續いて武陽軍の勇将村井出づるや、敵稍恐怖の念有るものゝ如し。時に應援隊は寂として其快擧を見んと水を打ちたるが如し。

 村井生き菅三壘の人となるや、前川犠牲球に依りて菅生還、續いて村井敵の備無きに乗じて冒険本城に馳け込みて美事に成功し喝采の聲、四寂を破りぬ。勇将伊井一壘に倒るゝや、花々しき吾が軍の活動も止み、五戰彼我得る所なく、六戰は始まりたり。

 日漸く没して天漸く暗く、二月の空未だ眠れるが如し。六戰も終るや、最後の活動は七戰に開かれぬ。黄昏と共に幕は切り落されたれば、ボールを見るに稍困難を感ずる様になりぬ。敵の驍将井上、四死球を得て二壘に進まむとして、井口、直木の手練に欺かれ、塚本、松尾或は二壘に死を遂げ、或は一壘の露と消え、守備の巖は益々其度を増して、直木の魔球忽ち其功を奏して敵を弄しぬ。
 我軍得點七+A敵五にて此所の試合は閉ぢられ、名誉ある月桂冠は我軍に落ちて、悠々陣を撤せし時は日全く暮れ渡りて、入相の鐘寂たり。

 恩師池田先生の熱心なる訓練の効は、今日此所に表はれ、撰手の喜譬ふる物なし。而して功は成り歴史は飾られて、武陽百五十の健兒は其責益重きを加へたり。記せよ此の試合。思へ将来の努力を。幸に野球部の人勝って鎧の緒をしめよ。二月の空、曇りたる日に遭ふごとにこの戰は猶眼前に彷彿たり。思へ撰手の努力と其活動とを。

常勝軍の旗高しの句を聞く皐月の一日

 其れ四十二年皐月の頃校庭に萌え出でし若草に、美しき花も咲きいでゝ百餘の生徒新らしく入學し、或ひは進級して、武陽の野は或る歡喜の念を以て滿たされたる折。
 一中より一通の挑戰状は舞ひ來りぬ。進級の氣に乗ぜる、春酣なる此の五月。櫻花爛漫森羅萬象皆春に酔へるの季。來る可き十六日を期して一中二年級撰手對我軍の試合は武陽原頭に開かる。兩軍の面々次の如し。
 

明治42年5月16日(日)神戸二中
午後3時
30分開始

 神戸一中 000 000 300=3
 神戸二中 101 400 00X=6
 

 〔二 中〕   〔一 中〕

 直 木(重一郎) P 木 村
 井 口(留市)  C 松 尾(賢治)
 菅 (和三郎) SS 塚 本(政一)
 中 村(従吉) 1B 今 井(一二三)
 前 川(俊栄) 2B 井 上(市太郎)
 藤 野(三郎) 3B 松 下
 横 川(市平) LF 田 村(一良)
 菊 岡( 明) CF 島 (増太郎)
 村 井(伊太郎)RF 内 山

 星移り物變ると共に此の武陽原も變り行きて遂に吾が撰手に一大變動起りたる也之れ此所に部員及校友の宜しく記憶せざるべからざることなり。他なし左壘(翼)手たりし武陽の驍将伊井勇助君の校を去りしことなり。

 君は或る家庭の事情に依りて退校せらたる也。之れに代りて菊岡明君入りて努力奮闘せらるゝことゝはなりぬ。
現在校友は勿論後進の諸子と言へども此の退きたる勇助君を憶ふと共に新に入りて初陣に立ちたる菊岡君の活動を記して失する勿れ。

 當日早稲田の重鎮と呼ばれ、天下に其の名を轟かしし泉谷氏來りて審判の勞を取らる。謹で部員一同此所に其の勞を謝せざるべからず。

 放課後武陽の空いと曇れり。校友と、曇天は之れ我軍の勝を告ぐる前兆也など語り合ふ内に、三時半頃より一聲高き泉谷氏の審判の下、試合は開始せられ、應援隊の拍手の裡に、我軍先づ陣を敷きぬ。敵急に我に迫る。

 敵の先鋒塚本脆くも直木の熱球の為に三振、井上、松尾續いていでしも亦枕を共に本壘に倒れしに代りて我軍先鋒先づ死したれど、村井一壘に生き、前川の遊撃打ちに本壘に入りつ。此に我軍一點を得たるも、後續かず。

 第一回は空しく終りて、第二戰兩軍亦共に得る所なし。第三戰には菅一點を収めたるに反して、敵あせれども得る所なく、第四戰の幕は敵塚本に依りて切られたれ共、直木、井口の巧妙なる投球捕球は、遂に功を奏しぬ。我軍の横川、滿身の力をこめて一振、熱球忽ち遊撃を突きて生き、捕手の矢に依りて二壘三壘を難なく奪ひ、續く井口の三壘打によく横川をして生還せしめぬ。

 初陣に立ちたる驍将菊岡四死球を利して一壘に生き、井口二壘にあり、時に直木猛球を遊撃に送りて井口を生還せしめ、二壘に菊岡を送りたるは如何に其功大なるかを知るべし。中村三振、菅亦生きて、菊岡本壘に突入しぬ。敵漸く陣形亂れたり。投手益狂ひて猛球を投げ續けたれ共、我軍迫らずあせらず遂に四點を収めたるぞ亦痛快なる。

 而して五回終りて六回難なくすみ、七回となりたり。敵漸く勢力をもりかへさむとして、内山四死球を利して生き、猛然として二壘に迫りぬ。時に捕手の投球稍正鵠を失して、功を内山になさしむ。

 而して塚本の安全球に、内山を本壘に突入せしめ、我軍の入らさじと、右翼の横川本壘めがけて投じたるも、時既に遅く、悠々として内山本壘に入りぬ。徒に敵をして一點を得しめたるは惜しくもある哉。井上、松尾は塚本を生還せてめむとバンドをなせども、我軍克く之を制して萬事休矣。

 六、七、八回兩軍とも克く守りたりけむ、得點もなくして最後の戰場の幕は夕陽西に没すると共に深き黄昏に乗じて開かれ、敵の攻撃益々急なりしも、我は猛球魔球、敵をして殆ど何する事をも得ざらしめて、此處に我軍六+(プラス)A對一中軍三にて月桂冠は我校に落ちぬ。

 而して萬歳三唱、其夕兩軍別を告げ、歸途戰友と戰状を談じて家路に急ぎぬ。仰げば摩耶の峯は我を迎へて立ち、神撫山は吾を送るが如く、暮色蒼然として至る凱歌の餘韻長く皐月の武陽の空に響く。