昭和41年(54陽会)1966年

NO5

昭和41年7月28日(木)姫路球場
▽3回戦(再試合)
 県兵庫 000 021 000=3
 姫路南 000 200 000=2


 (県兵庫) 打安点     (姫路南) 打安点
 B 武 藤 400     C 横 内 510
 E 和 佐 411     E 三戸瀬 300
 A 岸 本 411     G 歌 井 420
 F 藤 田 420     B 岡 部 300
 D 前 畑 410     F 荒 木 410
 @8 大野 401     A 垣 淵 421
 H 志 水 400     H 富 井 311
 C 江 本 200     H 大 掛 100
 H 森 川 100     @5 松本 300
 4 前 田 000     D 白 矢 100
 G 篠 田 100     1 黒 谷 220
 1  勝  310
     計 3563         計 3392

 (県兵)1110216
     振球犠盗併残
 (姫南)140108

 ▽三塁打=藤田 ▽二塁打=藤田、岸本 ▽失策=県兵庫3(武藤、和佐、大野)
  姫路南2(岡部、松本)▽試合時間=2時間39分

〔評〕前日延長18回を相譲らなかった再試合。県兵庫が第二投手の大野を先発させれば、姫路南は前日と同じく松本の起用。ともに勝、黒谷と切り札投手を残しており、継投策がこの試合のカギと見られた。

 ところが結果は皮肉。継投に失敗したかに見えた県兵庫に幸運の逆転勝ちがころがりこみ、投手リレーがスムーズにいった姫路南は野手が足をひっぱっての悔いある敗戦となった。

 先手は前日とは逆に姫路南がとった。四回一死後歌井が好投の大野から中前へ初安打、岡部は歩き、荒木が右前打とたたみかけて満塁。ここで県兵庫は予定通り勝に救援させた。だが前日18回を投げ切った勝には疲れがあった。
 姫路南は垣淵が左前打して先制、なおも富井がカーブを左へ連打して2点をリードした。

 県兵庫もすぐ反撃に移り、五回に松本をとらえた。一死後江本が四球、勝は中前打、さらに内野ゴロで二死二、三塁。このあと和佐、岸本が単長打してたちまちタイとした。調子づいた県兵庫は、六回にも先頭藤田が左中間三塁打。
 このピンチに姫路南は黒谷を繰り出した。前畑を三振、大野も前進守備の正面にとぶ遊ゴロに打ち取った。

 ところが強引に本塁へ突っ込む走者を刺そうとしたバックホームがわずかに右にそれて、県兵庫は逆転に成功した。黒谷は以後を無安打に押さえただけにまことに不運だった。

 姫路南は八回無死二塁を強攻策で逃がしたあと、九回一死後四球の松本と黒谷のエンドランが見事に成功。黒谷の一打は痛烈に右中間に飛んだ。しかし県兵庫大野中堅手の強肩は松本を三塁寸前に刺す好プレーとなって姫路南はついに涙をのんだ。

 だが、二日間にわたり、選抜出場の県兵庫を苦しめに苦しめた姫路南の健闘は大いにほめられよう。

昭和41年7月29日(金)姫路球場
▽4回戦
 飾磨工 000 100 003=4
 県兵庫 000 000 000=0


 (飾磨工) 打安点     (県兵庫) 打安点
 G 田 中 510     G 大 野 510
 D 畑 山 532     B 武 蔵 500
 @ 野々村 411     A 岸 本 400
 A 赤 石 510     F 藤 田 420
 B 福 本 530     D 前 畑 210
 H 溝 尾 310     @  勝  420
 F 島 津 431     H 志 水 400
 E 早 川 200     C 江 本 100
 C 三 俣 420     H 森 川 100
               4 前 田 100
               D 和 佐 210
     計 37154         計 3370

 (飾工)3130110
     振球犠盗併残
 (県兵)1411011

 ▽三塁打=島津 ▽失策=飾磨工1(赤石)県兵庫1(大野)
 ▽試合時間=2時間26分

(昭和41年度優秀選手)前畑良雄、大野俊三、勝 順一、藤田 誠

54陽会(昭和42年卒)
 
勝  順一    投手
 荒川 俊一    外野
 藤田  誠    外野
 武蔵 健児    内野
 江本  明    内野
 前畑 良雄    内野
 鈴木 一郎    マネ
 
☆武蔵健児氏 昭和42年卒、54陽会

 1966年、昭和41年春第38回選抜高校野球大会に私たちはエース勝君を軸に守りとミラクルなチームとして出場しました。

 昭和39年に県兵庫に入学。同期生は団塊の世代の中心で629人もいました。
 私は小学生のころから野球が大好きで中学校も野球部だったので迷わず野球部に入部しました。新入部員は27人でした。しかし、だれも県兵庫が甲子園に出 られるとは思っていなかったはずです。

 そのころは兵庫県はレベルが高く私学の報徳、育英、滝川。公立では市神港が甲子園に出場、活躍していました。連日ハードな練習が続き新入部員は次々と退部して行きました。三年まで残ったのはマネージャーだった鈴木一郎君(スペインでギタリストに)を含め7人になっていました。

 昭和40年の県予選2回戦で飾磨工に1−4で敗れて新チームに。秋の県大会地区予選で育英、滝川を抑えて優勝。県大会に出場、北条、葺合、竜野実を破ったあと明石に敗れましたが、敗者復活戦で滝川を倒したあと、2位決定戦で明石に雪辱して近畿大会に出場しました。
 近畿大会の1回戦で大阪の第1代表PLを接戦の末破って2回戦の高野山に負けたものの選抜に推薦されました。

 甲子園では高知高校に1−10で大敗、入場式から6時間後には早々と姿を消しました。勝君の肩が本調子であったら−と今も悔いが残ります。あれ以来、県兵庫にとって甲子園は遠い、遠いところになってしまいました。
何時の日か甲子園球場に母校の校歌が流れるのを祈っています。