昭和41年(54陽会)1966年

NO1

《武陽通信》
○野球部センバツ出場決まる○

 1月31日(日)第38回選抜高校野球大会の選考委員会が毎日新聞大阪本社で開かれ近畿地区6校の中に選出され、晴れの甲子園出場が決まった。31日の朝、大阪が1位に大鉄高を推薦して来たとの報が母校に入った。PL学園が1位校と考えていた県兵庫にとっては予想外のことで、折角、PLに快勝した努力がむなしく消えさるのではないかとの危惧がもたれた。

 近畿大会では大阪代表が勝ち残らなかったが、やはり大阪から1校の出場は決定的で、それがPLか大鉄かによって県兵庫の出場も決まって來るという大方の予想であった。従って大鉄高1位の推薦は、悲観的な材料だったのである。選考委員会では御所工、育英高はすぐに決まり、次いで兵庫に勝ち、御所に善戦した高野山が選らばれた。

 続いて地元大阪からというのでPL、大鉄が比較され論議の末PLに決定、次いでPLに快勝した県兵庫がその全国的な名門と品位の点でも高く評価されてここに第5番目に選出された。残る1校は平安が伝統の力とスケールの大きさがものを言って選ばれたのである。

 これで県兵庫は昭和23年河野−向井のバッテリー、昭和24年向井−田中のバッテリー、昭和30年森滝−高橋のバッテリーに次いで4回目の栄誉をうけたのである。
 現在のチームは軟投の勝投手を中心とする守りのチームであり、一番俊足大野中堅手と打撃でもしぶとい勝投手、四番のスラッガー藤田左翼手、それに七番のラッキーボーイ志水二塁手が中心である。
 恐らく甲子園では小粒ながらきりっと締ったチームカラーを生み出した柳生監督の采配よろしく、大物喰いの面目を遺憾なく発揮してくれることと思う。
 


◎…選抜高校野球出場メンバー…◎
〔昭和23年〕
 部長 山西英夫
 監督 筒井秀雄
 主将 河野 博

 H 岸本能宏
 E 半田元重
 D 大西 清
 @ 河野 博
 F 藤池 勅
 G 結崎政三
 B 迫平忠雄
 A 向井隆一
 C 片岡重幸

〔昭和24年〕
 部長 山西英夫
 監督 筒井秀雄
 主将 河野 博

 A 田中教仁
 C 半田元重
 D 大西 清
 H 河野 博
 F 藤池 勅
 G 結崎政三
 B 迫平忠雄
 @ 向井隆一
 E 片岡重幸

〔昭和30年〕
 部長 亀井平太郎
 監督 眞鍋宗次
 主将 三瀬正夫

 E 鳴川正人
 C 藤本周慶
 B 岡本征夫
 G 三瀬正夫
 F 天野節夫
 @ 森滝義己
 A 高橋弘治
 D 長岡新一
 H 浜西俊彦

〔昭和41年〕
 部長 樋口秀雄
 監督 柳生 茂
 主将 勝 順一

 @ 勝 順一(3)
 A 森川行信(2)
 B 志水孝司(2)
 C 柳瀬正信(2)
 D 前畑良雄(3)
 E 岸本 薫(2)
 F 藤田 誠(3)
 G 大野俊三(3)
 H 武蔵健兒(3)
 補 江本 明(3)
 〃 和佐篤男(2)
 〃 吉野文樹(2)
 〃 篠田庄司(2)
 〃 前田教一(2)


 

《武陽通信27号》
 ○選抜連続出場のころ○
                          小部次郎

○…昭和23年の夏は中等学校として最後の大会であった。この予選では準決勝で15A−4で一中に敗れ、一中は三田中学を決勝で下して全国大会に出た。二中はこのころからチーム力が上向きになり、昭和24年春の第一回選抜高校野球大会に選ばれた。初戦の相手は大正4年に夏の大会出て当った早稲田実業であった。早実は荒川(巨人コーチ)−宮井のバッテリー、二中は河野−向井で臨んだ。俄かづくりの捕手向井君の健闘はたたえられてよい。

 結局2−1で辛勝し、二回戦では北野中学と当った。北野中は橋−梅田のバッテリー、この時の一塁手多胡は後に慶応で鳴らした選手である。試合は泥試合の乱戦となり逆転また逆転で3−2で惜敗した。しかしこの大会で二中の三番打者大西君は打数7、安打4で打率6割7分1厘をマーク、打撃賞を獲得した。この大会は選抜高校野球と改名しながら、校名は依然、旧校名を使っていた。

 二中の校歌は『勇敢なる水兵』なので、早実に勝って、このメロディーが場内に流れると、反戦国調の時勢だっただけにどよめきが起った。食糧事情、衣料事情すべてが最悪のころであった。この年の夏の大会は、神戸四高には1点を許したが県一商、尼工、滝川をいずれも零敗に破り、決勝戦で芦屋高校に当った。この時神戸二高と校名は改められていた。

 芦屋は有本−福岡、神戸二高は向井−田中のバッテリーで好試合を展開した。結局5−3で敗れた。軟投の有本の球にほんろうされた形だった。だが、この後の国体代表決定戦で見事に4−0で芦屋を破り無念をはらし、国体に出場した。

○…昭和24年春にも兵庫高校としてセンバツに連続出場した。この時兵庫代表は2校で芦屋高とともに出た。この大会では二中の校歌は遠慮して「野球部歌」を校歌に代えて出場した。緒戦から強豪桐蔭高校とぶつかった。結果は3−2で惜敗したのだが、当時の毎日新聞はこのように戦評している。

「A級同士の対戦であり投手戦であるが好試合であった。桐蔭西村は本大会新記録の三振18個で、兵庫は全員三振している。桐蔭最初の1点は三回一番打者金丸のホームスチールでこれも本大会の新記録である。この1点を守って西村の剛球は兵庫を続々三振にしていた。

 しかし兵庫の向井投手も軟投であったが内外角をついて桐蔭を凡打にして背後の好守とともに立派であった。九回一走者ある時、金丸は右翼手をワンバウンドで抜くホームランし2点を加えダメ押しをした。これに対し兵庫もその裏奮起し、四球4と1安打で2点を報い、しかも二死満塁であったが形勢逆転はならなかった」

○…この試合の幕切れは劇的であった。3−0とリードされた9回裏、兵庫の先頭打者迫平君は一塁ライナーで一死、8番向井君は四球、9番片岡君は3球三振、ここで打順は1番にかえり捕手田中君は1−2のカウントから中堅手前へ快打、続く2番半田君四球で満塁、3番大西君四球で押し出しの1点、4番河野君もファウルでねばって2−3から四球で2点、あと1点差にせまって、なお二死満塁。5番藤池第一球ストライク、二球空振で2−0。

 次の球の時、三塁走者に背を向ける左腕西村投手の虚をついて三塁走者俊足半田君がホームスチール。これはタイミングはセーフだったと思う。しかし不幸にも投球はストライクで打者三振となり幕切れとなった。後日談になるが、この時、西村投手は、この本盗に全然気づかずに投球したのが、たまたまストライクになったとのことである。

 この年の夏の大会は伏兵姫路市立高に7−3で破れた。これで黄金時代は終った。
 それから6年後、昭和30年には森滝−高橋のバッテリーで通算3度目のセンバツ出場となったが、これも右翼手のトンネルにより、若狭高校に緒戦で敗退した。雌伏11年、ついに本年の4度目の出場を迎えたのである。野球部諸君の奮起を祈ってやまない。