昭和4年 |
神戸二中卒、17陽会 三高から東大へ |
昭和48年
10月 |
藍綬褒章 |
昭和11年 |
東大経済学部経済学科卒 |
昭和49年
4月 |
ベルギー王冠勲章 |
昭和11年 |
三井物産入社 |
昭和56年
4月 |
逓信記念日郵政大臣表彰 |
昭和22年 |
極東食糧 |
昭和56年
12月 |
Knight Commander
of
the
Most Excellent
Order of
the British
Empire |
昭和24年 |
穀物油脂部長 |
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昭和28年 |
第一通商穀物油脂部次長 |
昭和29年 9月 |
ニューヨーク支店長 |
昭和57年
5月 |
オーストリア共和国功労大金章 |
昭和30年 7月 |
第一物産ニューヨーク支店次長 |
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昭和34年 2月 |
三井物産と改称 |
昭和57年 11月 |
勲一等 |
昭和36年 2月 |
台北支店長 |
勲一等瑞褒章 |
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昭和38年 3月 |
ロンドン支店長 |
塩業審議会委員 |
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昭和40年 |
取締役ロンドン支店長 |
日米協会理事 |
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昭和42年 11月 |
業務部長 |
日英協会 |
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昭和43年 11月 |
常務取締役 |
経済団体連合会推薦会員 |
昭和46年 5月 |
副社長 |
経済同友会顧問 |
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昭和48年 5月 |
社長 |
日本工業クラブ |
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昭和54年
6月 |
会長 |
ボーイスカウト日本連盟評議員 |
昭和57年
6月 |
相談役 |
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昭和63年
7月 |
NHK会長 |
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平成元年
4月 |
退任 |
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神戸二中では遊撃手、三高でも内野手として活躍。さらに東大に進んでからは三塁を守った。
昭和9年の【東京大学聯盟】は春1試合、秋2試合制を採っていた。
池田氏は9年全試合(15)に出場している。最初4月22日の立教戦は三塁・六番。その後守備の三塁は変わりないが打順は一、二、六番を打っている。11試合が一番、3試合六番、1試合二番とトップバッタータイプだった。
夫人から平成12年10月14日次のようなお便りを頂きました。
『此度は武陽野球倶楽部部史ご製作のご案内をいただき有難う存じました。折角のご申出ながら生憎、この處体調をくずして入院中でございますのでご協力申上げられず残念に存じます。何卒よろしく御了解の上お世話様になっております皆様へよろしう願上げます。変わりやすいこの季節をご大切に遊ばしますように。右要用のみご返事迄申上げます。 かしこ』
☆大橋政一氏 明治43年7月25日生まれ。
平成11年4月25日午後2時28分、急性呼吸不全のため神戸市西区の病院で死去。
88歳。
昭和4年、神戸二中卒、17陽会。横濱高商卒。 初代野球部OB会長。
横濱高商卒業後、会社経営の傍ら社会人チーム〈全神戸〉の主力選手として活躍、
昭和7年の第6回都市対抗野球大会で優勝した。 |
=昭和45年9月1日発行=(兵庫県高校野球五十年史より)
明治の末期から大正の時代にかけて神戸の球界を二分するとまでいわれた一中、二中の定期戦は母校の名誉かけて精根をかたむけ「打倒一中」はたまた「怨敵二中」と若い血潮を燃やし、お互いにしのぎを削って情熱をたぎらせてきた。
私がレフトを守っていた3年生の春(大正15年)当時、神戸新聞社が京神大会と銘打って京都府の代表と兵庫県の勝者との府県対抗の大会が催されていた県下予選の2回戦に一中とぶつかりました。
大正7年に応援団のもつれから定期戦は中止となり、夏の大会や秋の扇港大会(又新日報主催)に当たる程度で大正10年以降、偶然、5年間顔を合わしていなかったのです。
しかし、戦前の予想を裏切り9対6で、劣勢を伝えられた一中の軍門に降り、暮色の明石グラウンドで涙をのむ結果となり、應援団に励まされ、なだめられて、復しゅうを誓い合ったのでありました。
大正天皇が崩御、年号は昭和と改まり、新チームは橋爪投手と三塁手沢野の2名を校門から送って、あとわたくしが投手の重責をにない、マウンドを死守した。
ついに巡りきた復讐の日だ!櫻咲き乱れる4月7日同じ京神大会第1回戦に恨みは深し明石グラウンドに再び相見えることになった。幸いなるかな!わが陣容は三塁に名手丸山を加え、藤池、森山、亀山、小西など精鋭の参加に一段と力量は向上し、怨敵一中を血祭りにあげんものと、復讐の意氣、天を突き、血気にはやる応援団に囲まれて勇躍グラウンドに乗り込んだ。
一方、一中もさるもの、円熟味増した宮崎投手は、ますますその快腕をほしいままにし、新チーム結成以来、無敗を堅持し、だれがみても六分四分で今度は一中が有利と評されていた。
二中は先輩島津保雄氏を監督に、宮崎投手の投球内容をつぶさに研究して真正面攻撃は避け、守備の弱点を突いて、その一角をとりくずして、動揺させ、一気に攻め込む集中攻撃より手はなしと初回から猛然と切り込んだ。
1番主将眞鍋、二塁打に出て、四球、暴投、大橋の安打と立て続けに攻め込んで一挙4点を挙げるや、一中もすかさず2回表、同じく4点を取り、試合はいやが上にも白熱して、まさに竜虎の激突となる。
三回、四回、両軍凡退を重ねるも五回、二中また火をふいた。田中の四球を足場に二死後、つるべ打ちに打ちまくって、堂々4点を挙げて優位に立ち、あと七回にも大橋の三塁打でだめ押しとも思われる1点を入れ、計9点。一中も追撃に移り、七回藤田の安打を深井の左翼二塁打で生還し1点、八回畑中中堅安打、松尾三振後石黒、八木四死球に続き、藤田の左翼安打に畑中、石黒得点し2点を挙げ、7点を追い上げたが、九回、谷尻の二塁打も後続二者三振し、万事休す。
とうとう9対7の大接戦で凱歌を奏することができた。ここに復讐なる!若い限りない力を使い果した。たとえようのない激しい戦いであった。過去屈辱の一年の努力はついに実を結んだ。
勝利の感慨にひたりつつ、昨年敗戦の悲涙にむせんだお濠端にたたずめば、あでやかに咲きにおう満開の桜花が一せいに拍手を送っているように、白い花びらが微風になびいて、ハラハラと頭上に舞い落ち明石城も祝福しているかのようであった。勝利の栄冠を心から味わった若き日の思い出は今に至っても、なお、数年前のことのように生き生きとよみがえっています。
余談ながら一中の宮崎君と昭和4年卒業後ともに横濱高商に進み、在学中はもちろん卒業後も、おおいに野球をエンジョイし、インターハイの全国優勝。都市対抗で「オール神戸」の優勝と、ながく友情の火を消えることなく、今にあたたかく結ばれています。
昭和40年12月発行の《武陽通信26号》に掲載された〔野球部50年史〕の座談会(5)で野球部の思い出を次のように話している。
『私の思い出といいますと、何といっても、野球のお蔭で級長にしていただいたことを忘れることができません。また四年生の時先生方と試合をして、江川先生の鼻柱にシュートボールを当ててしまい、眼鏡は飛ぶ、鼻の骨をまげるといったような始末で、先生がとうとう二週間も休まれたことをおぼえています。
私の入部は大正15年でしたが、春の京神大会には三年でレフトをやりました。(※大正15年5月2日、板宿大手球場、対伊丹中学戦。八番で左翼、3打数1安打、二塁打1)この時一中に敗けましてね。(※5月16日、6−9で負け)明石のお濠のそばで応援団にかこまれてさんざんしぼられたのはつらいことでした。
四年生になってからピッチャーをやるようになったのですが、前年と同じ場所で7−5(大橋氏の記憶違いで9−7)で一中を破り、その翌日がちょうど級長選挙だったのですが、私に票が集ってとうとう野球のお蔭で級長を経験した次第です。
これは新聞にまで載せられましてね。それから五年生の時、夏の予選では優勝戦で甲陽中学に4−3で敗けました。秋に御大典記念の全国選抜大会が行われましてその時は優勝してどうやら最後を飾ることができました』 |