☆池田多助氏
明治16年(1883)〜昭和39年(1964)12月19日死去、82歳
神戸一中(神戸高校)第2代校長。伊勢市出身。明治35年神戸一中の第3回卒業生。在学中、後に早稲田大学へ入り最初の早慶戦を実現した泉谷祐勝らとメンバーを組み、全国中学校野球部の先駆者となり主将として活躍し、野球部最初の黄金時代を築く。 広島高等師範学校卒業後、附属中学校に勤め、同41年神戸二中(兵庫高校)に赴任、同校の野球部創設に尽くす。さらに京都帝国大学英文科に学び、徳山中学校、大阪府立十二中(生野高校)を経て大正4年(1915)関西学院高等部教授。ここでも野球部部長として発展に尽くし『野球の父』と称された。
13年神戸一中校長となり昭和20年(1945)まで22年間にわたって初代校長鶴崎久米一の教育方針を受けつぎ、質実・剛健・自重・自治の校訓の発展と運動の奨励につとめた。特に大正14年かえあ10カ月にわたってイギリスのパブリック・スクールを訪れ、この伝統と方針の妙味を加え、ゼントルマンシップの育成による人材教育に尽くした。
昭和20年同中学を退職。甲南高等女学校校長となり甲南女子短大を設立、今日の甲南女子学園の基礎を築いた。
=兵庫年鑑より=
《武陽 創立十周年記念號》の『野球部史 創立』に次のように記されている。
校友會各部の中最も早く活動を始め最も異彩ある光を放つは我が野球部なりとす、池田多助先生を第一の部長に戴き混濁の氣充満する世の風潮を他所にして獨り超然として此の神撫山下菊水の流れ清き武陽原に呱々の聲を上げしは、實に十星霜の昔、開校の年明治四十一年五月一日なりき。
池田先生は實に吾部創立の恩師にして、部今日の隆盛は一に先生の努力に負ふ處大なるものがありとす。
先生の創立発展に盡瘁せらるゝや最も切にして風雪を外に常に原頭の人となりて指導奨励し給ひしかば、部員も其高潔なる品性に化せられ嚴峻なる氣性に惰氣を拂はれて奮闘し『異彩ある野球部』を標榜して武士道に則り天下百萬の健兒なきを慨して滔流と戦ひ自ら校風の維持者にして且發揮者なるを以て任ぜり。於此我野球部は遥に遊戯運動の域を脱して白熾の大熱を帯べる一大修養團となりぬ。
もとより其の技は幼稚なるものなりしも、我野球部は遊に非ず、戯に非ず、内部生命の露顕なりとして其の精神や誠に雄固たるものなりき。其の精氣の迸る所熱意となり氣概となり以て二中スピリットを形成せり、創立當時に於ける武陽原は恰も茫漠たる荒野の如き感ありて之を今日の如き立派なるグラウンドとなすには幾多先輩の不斷の惨憺たる努力を費したる也。
此の先輩の偉大なる努力は池田先生の鴻恩と共に我等の深く記して忘るべからざる所なりとす。
と二中野球部は池田多助氏の存在を無くして考えられない−二中野球部の生みの親と記している。
*昭和9年12月発行《武陽34号》に池田多助氏関連記事。 |