昭和24年(37陽会)1949年

NO5

 ☆藤池 勍氏  
  昭和25年県兵庫卒 37陽会

 昭和19年、第二次世界大戦真只中の二中入学であった。
 敵国のスポーツ、野球などとてもやれる状態ではなかった。『欲しがりません勝つまでは』を合い言葉に、勉学に、軍事教練に励んだ。すべての物が払底、なにもないのでフンドシ一丁でやれる相撲部に入り体を鍛えた。

 小学校では校庭での野球は禁止だった。ガラスが割れるからだ。また子供のころは道路で軟式のテニスボールで三角ベースの野球をしたものだ。楽しい思い出だ。
 終戦の翌年、昭和21年に疎開先から神戸に帰ってきたのを機会に硬式野球部に入った。筒井監督だった。ルールを始めセオリー、マナーそして楽しさ、野球に関するすべてを教わった。むさぼるように知識を吸収していった。

 軍隊から帰って来た先輩に、よく気合いを入れられた。しぼられた苦しみは今となれば懐かしい思い出としてはっきり脳裏に焼きついている。バックネットがないので校舎の壁が代わりを務めた。当たったボールの行方は定まらない。
 跳ね返ったボールが湊川に飛び込んで、ブカブカ流れ出す。入部したころは素足で右往左往、そのボールを追いかけたものだ。何度も水浴をしたボールはふやけてソフトボールのように膨張していた。

 糸目が切れたボールは家に持って帰り縫ってくる。そして翌日の練習に使う。貴重品のボール、皮が擦り切れるまで何度も何度も縫って使った。用具で潤沢なものは何もない。バットもない。全部折れてしまいバッティング練習が出来ないことも屡々あった。折れ難いように−と太くて重い300匁もあるのをさらに短く持って打っていた。

 用具についてこんなエピソードも。

 当時滝川中学も強かった。バットがなくて練習が出来なくなったとき偵察に来ていた滝川中のマネージャーが『交通費は出す。バット、ボールは滝川で持つから練習試合をして欲しい』と言ってきた。そこで滝川中のグラウンドで試合をして勝ったが、翌日筒井監督に大目玉を食ったが、選抜の選考前の大切なときだったこともあったのだろう。

 昭和23年に選抜出場が決まり、先輩たちからの寄付が集り念願のバックネットが出来、やっと素晴らしいバットを使って思う存分野球に打ち込めるようになった。
 バッティングに自信が持て始めるとともに、一段と野球が楽しくなってきた。

 選抜に出場した23年の秋に前年まで二中の教頭先生だった福井県立武生高校水上校長先生の招待で遠征して勝ったこと、食糧難の時代でお米持参で遠征したこと、50年経った今も走馬灯のように頭の中を駆け巡る。(平成1210月3日)

 ☆大西 清氏 
  昭和25年卒、第37陽会

 私たちのころのチームは強力打線で相手を圧倒するのではなく数少ないチャンスを確実にものにして挙げた得点を守りに守って勝利に結びつけるというタイプでした。だから守備には全員が自信を持っていました。

 『練習では自分が一番下手だと思え。試合では自分が一番上手だと思って自信を持って臨め』という筒井監督の指導を忠実に実行していました。また『どこの学校も戦力的には大きな差はない。要は頭の使いようだ。頭を使って野球をするチームが強いのだ。

 頭を使うか、漠然と試合をしているかの違いが勝敗を分ける』とも教えられました。雨天のためグラウンドで練習が出来ないときは教室でルールとセオリー徹底的に叩き込まれました。そのお陰でケースバイケース試合のなかで野球の流れが理解出来るようになりました。

 私は三番を打っていましたが、インニング、得点、相手投手の調子を考え次はバントか強攻か−ベンチからの監督のサインを見る前に予知することができました。当時の選手全員が監督の采配を先々読んでいたと思います。ベンチと選手の気持ちが完全に一致していました。チーム全体が一丸になった−とはこのような状態を言うのでしょう。

 『投手力が弱い』と言われたことがありました。しかし、投手力が弱くて“守りのチーム”が成り立つわけがありません。卒業後しばらくして青木さん(清氏。関学−立教大−近鉄球団、捕手。立教大卒業後県兵庫高のコーチを務める)にお会いしたとき『われわれは向井のシュートを力のないボールと思っていたが、今考えるとあれはまさしく“落ちる球”だった』と言っておられたが、ドロップ以外縦の変化球のことはあまり聞かなったころなので“秘球”と言える球種だったでしよう。

 そう言えばバットの芯を外した当たり損ねのゴロ、特に三塁へのゴロが多かったです。私は卒業後早稲田大学第一政経学部に進んだのですが、健康診断で“肺浸潤”と宣告され一年間の休部を命じられました。
 ベンチ入り決定と同時だっただけに大変なショックでした。私の胸部レントゲン写真を見た医師は、石灰化した大きな痕跡に驚きますが、発病した記憶は全くありません。残念な出来事でした。

 ☆家城章雄氏  
  昭和25年県兵庫卒 37陽会

 昭和23年春の選抜後に入部し、26年神戸商大二回生の秋のリーグ戦まで現役の投手として四年近く野球を楽しませてもらいました。

 昭和24年夏の県代表を目指し、ボールが見えなくなるまで、水も飲まず腕に塩の吹くまでよく練習したものだと思ひます。そのころ、立教出身の青池さん(清氏、後にプロ野球近鉄へ入団)がコーチとして就任され、あいさつの手始めとしてノックをサードから始めた時のことは、全部員が一生忘れないと思います。

 ミスをしたり逃げたりすると、一歩前へのくりかえし、最後にはグローブをはずさせ強烈なノックを打たれた時、嘔吐を催す者が出るほどのショックを受けました。
 青池さんは捕手ということでピッチングを受けて頂きました。構えたミットをはずすと受けてもらえず球は後方へ、全力失踪で球を取りに行きマウンドへ戻っては投げるという反復でした。

 ストライクゾーンの四つのポイントにそれぞれ10球決るまで、何球投げたことやらよく覚えていません。ピッチングを終ると校庭の端を終日ランニングというのが日課でした。コントロールは足腰、特に腰がポイントであることを教えられました。
 商大に入り近畿六大学リーグ戦で、特に近大戦では初戦、先発オール完投、不敗の記録が自惚れの種です。

 今でも時々思ひ出すのは同期の藤池氏が阪神タイガースのテストを受け入団通知書が玄関の出ばった郵便箱に入っていたため、発見が遅れチャンスを逃したことです。
 当時すでに三菱重工業の四番打者として活躍していましたが、ちょっとしたことで《阪神の藤池》が実現しなかったことが惜しまれてなりません。

 とりわけ印象に残っているのは昭和24年の選抜で桐蔭の怪童西村投手から放った痛烈な安打。長田高のグラウンドで打ったセンター前へのヒット−と思われたライナーがグングン伸びてホームランに。
 それも左腕一本のスイングで。豪打者中西太(西鉄)をほうふつさせる猛烈な打球です。藤池氏が阪神のユニホームを着ていたらタイガースの歴史は変っていたかもしれません。鳴呼!

『昭和25年、前年全国高校野球選抜大会に出場した県立兵庫高校から4名の選手が入学、中でも投手家城章雄は持ち前の豪速球で対近大戦2試合完封勝利を挙げ、両3度優勝決定戦を戦った』
      =近畿学生野球連盟創立50周年記念誌《球跡》の神戸商科大学史から=

 ☆柳生 茂氏
  昭和25年県兵庫卒 37陽会

 昭和 39年〜47年の 9年間(実質年間)母校県兵庫高の監督を務め昭和41年春勝投手を擁して第38回選抜大会に出場。昭和48年〜 53年の年間野球部部長。

 昭和38年 8月野球部のOB会で姉崎先生から「兵庫高校野球部再建のため監督になって欲しい」との要請がありました。当時私は中学校(大橋中学)の教師でしたし、高校の硬式野球の監督が務まるだけの球暦はありませんでした。

 中学、高校の計
4年間しか経験は無く自信なんかありませんでしたが、終戦後の混乱期にわれわれを熱心に指導して下さった筒井監督への恩返しになれば、そして後輩達のレベルアップに少しでもお役に立てば−と思いお引き受けすることにしました。

 17回生(昭和 39年卒、52陽会)の選手は常徳君(=志良氏=昭和 28年卒、40陽会)の指導よろしくレベルの高いチームでいい試合をしていました。
 私は18回生(昭和40年卒、53陽会)から監督を引き継ぎましたが、新チームの部員は
20数人、選手の数は少なかったですが、全員が意欲十分、監督の私が引っ張られるように感じたほどでした。

 19回生(昭和41年卒、54陽会)の2年生のとき、昭和40年秋の県大会に同じ地区から育英、滝川とともに出場、3−1北条、8−0葺合、8−5竜野実と勝ち進み、準決勝で明石に1−4で敗れましたが、敗者復活戦7−1で滝川を破り2位決定戦で1−0明石を退け2位になり近畿大会の出場を決めました。
 その間試合日程の都合で修学旅行を諦めざるを得ませんでした。強豪の報徳が3回戦で滝川に負け姿を消したことも幸運だったと思います。

近畿大会の1回戦で新チーム結成以来負け知らずのPLと対戦、予想を覆して2−1で勝ち翌年春の選抜出場に大きく前進しました。 2回戦の相手は高野山高、13で敗戦。しかし、近畿大会での活躍が認められて41年の選抜に出場する事が出来ました。

 選抜では私の経験不足により、選手たちの体調、調整の失敗で大敗を喫し期待に添うことが出来ませんでした。監督
年、部長 7年野球の発展にたずさわって来ましたが、いろいろ悪条件もあり強力なチームを作ることは出来なかった事は残念です。しかし、思い出はいいことばかり、最高に満足の行く母校での野球部生活でした。