昭和24年(37陽会)1949年

NO4

 ☆河野 博氏  
  昭和25年県兵庫卒、37陽会
  昭和5年1025日生まれ

 神戸二中に入学したころは戦争の真っ只中、野球部は休部状態でした。昭和20年8月15日終戦、世の中は混乱の極にありこの先一体どうなるのかと不安一杯でした。ところが野球部の復活は思いのほか早くすぐに入部、野球部の一員になりました。用具が揃わなくてずいぶん苦労したものです。

 全国的にも中学での野球部の活動が活発になり、復興への力強い歩調に合わせるかのように野球熱は上昇の一途を辿りました。昭和22年の春に選抜が復活、翌23年には神戸二中がその栄に恵まれ兵庫県の代表として甲子園の土を踏みました。
 大正4年夏の第1回全国大会に出場して以来の桧舞台でした。

 この年六・三・三制の学制改革があり、中等学校は高等学校となり、選抜もこれにともなって名称が変更され【第1回高等学校(新制)野球大会】と呼ばれるようになりました。しかし、校名は《神戸二中》でした。
 ナイン全員嬉しさと緊張のため入場行進のときは足が震えてまるで雲の上を歩いているようでした。

1回戦で早稲田実業と対戦、2−1で勝ち、2回戦は大阪代表の北野中学に2−3で惜敗。2回戦は1回戦のときとは違って精神的にも落ち着いていましたが、大阪対兵庫の一戦とあってスタンドは超満員、投手がプレートに足を掛けると相手側のスタンドから嵐のような大歓声が巻き起こって投球に集中出来ない。

 するとキャッチャーの向井君がマウンドにやって来て『耳栓をしたら』と言ったんです。あんなときに冗談を言える向井君って肝が座っているんだなあと思いました。

 翌24年にも選抜に出場。1回戦の相手は和歌山の桐蔭高校、西村という物凄い左腕の剛球投手がいて優勝候補の筆頭に挙げられていたんですが、実際対戦してみると噂にたがわぬ凄い投手でした。
 先入観というか“凄い”という潜在意識が災いして胸元の高目球に手を出して三振の山を築き、終わってみれば18もの三振を喫していました。

 それでも2−3の接戦、9回裏あわやの場面を逃しての敗戦でした。卒業した25年大阪タイガース(阪神タイガース)に入団したのですが、西村投手も同じユニホームを着ることになり『胸元の高目ボールに手を出してくれたお陰で勝てた』と話してくれました。2年連続して選抜に出場したことがなによりの思い出ですが、それを力強くバックアップして下さった学校、筒井監督に対する感謝の気持ちは今も忘れることはありません。

☆向井隆一氏  昭和25年県兵庫卒、37陽会
   関西学院大学法学部卒
   関西学院大学硬式野球部OB会会員
   平成7年までOB会長を務める
   中央港運社長(平成12年7月現在)
 

 ◎平成12年7月19日(水)梅雨明け宣言の直後、それを機に気温は一気に上昇、吹き出る汗はまたたく間に小さなハンカチを湿らせてしまう。そんな日、神戸・中央区の会社(中央港湾)に向井氏を訪ねた。当然のように最も印象に残っている試合から話は始まる。

 『選抜?いやそうではないんです。昭和23年、県予選の決勝戦で芦屋に負けた試合なんです。戦前の下馬評は二中の方が有利だったんです。表彰式ではだれが優勝旗を持つとか分担まで決めていて試合前からすっかり優勝気分でした。

 なにしろ夏の優勝は第1回大会、大正4年以来ですからね。私と有本君(慶応=スポーツニッポン=ダイエー=野球評論家)の投げ合いで4回まで0−0。
 5回、私が打たれて2点を先に取られたんですが、6回に相手の失策から3点を入れて逆転、あと3インニングで…。と全選手栄冠目指してさらに闘志を燃やしたんですが8回守備に乱れが出て致命的な3点を失って千載一遇のチャンスを逃してしまったのです。

 優勝がプレッシャーとなっていたんでしょう』とあと一歩のところで念願の【優勝】を逃した悔しさを話す。半世紀経ってもこの敗戦は脳裏からは消えない。夏が来て予選の季節になるたびに向井氏は目前にしてするりと逃げて行った夏の甲子園を思い出すと言う。『新チームになった秋の県大会の準決勝で芦屋と対戦、有本君相手に4−0で雪辱しましたが…』

 ◎『その年(昭和23年)の選抜に出ていますが、1回戦で荒川さん(元巨人=王貞治氏の師匠)が投手の早実と対戦し2ー1で勝ったんですが、この試合は河野さんが投げて私はキャッチャーでした。
 当時、河野さんと私は試合によってバッテリーが入れ替わることがよくありました。そして2回戦の相手は大阪の代表北野中学でした。

 大阪と神戸の顔合わせとあってスタンドは満員。大変な応援ぶりで選手間の話声が聞こえないんです。騒がしいといったようなものではありませんでした。この試合も逆転、再逆転の末後半に決勝点を取られて1点差負け。勝ち試合も1、2点差のクロスゲームが多かったのですが、それだけに負け試合の悔しさは強く印象に残っています。

 翌24年も連続して選抜に出たんですがそのときも1点差での負けでした。1回戦で桐蔭に2−3、相手の西村投手はのちに阪神に行ったのですが、速い球を投げていましたね。三振を18取られとても打てる気がしませんでした。
 それでも3−0とリードされた9回の裏2点を挽回して二死満塁、一打逆転サヨナラの場面、しかし、三塁走者の半田君がホームスチィールを企ててきわどいタイミングでしたが、打者の藤池が見送りの三振、瞬間ゲームセット。

 内容的にはともかく惜しい試合でした』向井氏の輝かしい球暦には悔いが残る“忘れられない試合”が多くあるが、なかでも『わけの分からないうちに負けた』のが最後の予選となった昭和24年の3回戦、対市姫路戦である。

 ◎7月25日、その試合は明石球場で行なわれた。向井−堀川両投手の好投で7回を終わって2−2のタイ。試合内容は安打数で圧倒的に優る市姫路が押していた。8回裏県兵庫が1点をリード、9回表を抑えればベスト16進出だ。

 その直後夢想だにしなかった大波瀾が起こったのだ。『満塁だったか、ともかく塁上は走者で埋まっていました。次打者の打球はピッチャーフライ、その瞬間なぜか平衡感覚をなくしてしまったんです。
 平凡なフライを落球“シマッタ”と思ったときには何人もの走者がホームベースを駆け抜けていました。

 気がつけばスコアボードに“5”が。有終の美を飾れなかったばかりか物の怪に取りつかれたような敗戦、本当に後味の悪い負けでした。もう少しいい形で高校での野球生活を終えたかったのですがね』悪魔に魅入られたとしか思えないようなエラーで向井氏の神戸二中−県兵庫の野球生活は終わった。

◇『終戦直後、野球用具の調達のため苦労したこと、バット、グローブの修理、底が釘まみれのスパイク、あらん限りの知識を駆使して用具の寿命を延ばして使用した思い出、恵まれた環境の今では想像もつかない苦しさは勝敗以上深く脳裏に刻み込まれています』苦労話も尽きない向井氏である。

 ☆田中教仁氏  昭和25年県兵庫高卒、37陽会
  昭和29年神戸商科大学卒
  神戸ポートピアホテル会長(平成13年)
 

 私が神戸二中(旧制)の野球試合を観戦したのは、小学校の五年生で、昭和17年の5月ころだったと思います。神戸市民球場の神戸一中との定期戦でした。スタンドがカーキー色の制服一色で埋まり(一中、二中とも制服はカーキー色)全校生徒の応援合戦でスタンドは物凄い熱気に溢れ子供ながら興奮したことを今もはっきり覚えています。

 小出投手(昭和18年神戸二中卒、31陽会)の好投で延長戦の末二中が勝利を収めたことが走馬灯のように頭の中を駆け巡ります。太平洋戦争が終わった昭和20年、私は二中の二年生でした。好きな野球が出来るようになり、向井君、清瀬君、大西君らとゴムマリで気持ちをまぎらせながら野球を楽しんでいました。

 最上級生だった坂本さん、宮本さん、芝田さんらが野球部の復活を計畫されていて、私たちは全員参加させてもらうことになりました。海軍兵学校から学校に戻って来られた小谷さん、尾崎さんら元気のいい先輩に連日『二中精神注入棒』と命名されたバットでしぼられました。
 とりわけ小谷さんは『さあーいくぞ!』軍隊調そのもの、一球、一球力一杯打ち込んでこられた(時には空振りも)ことが今となっては懐かしく思い出されます。

 11月の復活戦の相手は灘中学でした。二塁手として出場しましたが、相手の二塁手が三好一彦氏(神戸大学硬式野球部主将、のちに阪神タイガースの球団社長)でした。現在(平成13年)も経済人野球などでお世話になり、ご交諠を頂いています。
 この試合、両校投手、死球連発の結果11−8で辛勝したことを記憶しています。

 終戦の翌年、昭和21年夏の大会(全国野球選手権大会)が5年ぶりに復活、神戸高商(当時垂水にあり、現在の神戸商科大学)で合宿練習を行うことになり、近くの私の自宅なども開放しました。庭先の藤棚の下で、先輩から“喝”を入れられたことが苦い思い出として残っています。

 その後、年とともにチームは順調に成長して行き昭和23年、24年と連続して選抜に選ばれるとう栄誉に恵まれ、3738回の人達とともに甲子園でプレー出来たことは高校時代のなによりも貴重な体験でした。

 卒業して神戸商大に進みましたが、二年上級の坂本さん、見持さん、宮崎さん、秋山さん、また同期の家城君、鎌田君、一年下の谷中君ら多くの同窓生に囲まれて楽しく、愉快な大学生活を送ることが出来ました。

 最後に私事で恐縮ですが、愚息が東京大学の野球部のお世話になり、卒業後官庁への就職の相談を受けた際、神戸二中の大先輩であり東京大学の名選手で、戦争末期最後の沖縄県知事を勤められた島田叡さんが進まれた自治省に行くよう強く薦めました。

 田中氏は70歳を迎えても野球とのつながりは続いているという。近畿の企業の社長、役員で作っている【関西経済人野球チーム】で今でも第一線で頑張っている。
 このチームの総監督は高校野球連盟会長の牧野直隆氏。毎年秋に関東経済人チームと東西交流試合を行っているが、牧野投手の登板もあり、ときには田中氏がマスクをかむって女房役を務めるというから文句なしに“日本一高齢バッテリー”であろう。
 いつまで続くか田中氏のユニホーム姿。《200歳バッテリー》もあながち夢ではないかも。どこまで挑戦出来るか、楽しみにしておこう。