☆筒井秀雄氏 大正4年7月20日生まれ
昭和8年神戸二中卒、21陽会
昭和11年関西学院文学部社会学科卒 |
昭和5年(旧制)神戸二中3年の秋、新チームが編成されたときマネージャーとなり野球部との関わりを持つ。
それ以後戦争のため兵役に就いていた間を除き昭和24年春までコーチ補佐、コーチ、監督として母校野球部発展のために尽くした。その間、昭和23年、24年連続選抜大会に出場させるなど輝かしい足跡を残している。
“高校野球”を卒業?した筒井氏は昭和24年選抜が終わったあと中学野球の発展に取り組んだ。平成12年で52回を迎えた兵庫県中学軟式野球大会の第1回大会(昭和24年)から関与し、県中学野球連盟発足の功労者となった。
明石の大久保中、錦城中などの教諭を勤めたが一貫して野球部の指導に当たった。昭和33年(1958)錦城中の監督として県大会に出場、優勝に導いている。旧制中学、高校、中学と筒井氏が指導者として歩んできた野球人生は輝きと満足感に満ち溢れているに違いない。
平成12年6月20日(火)兵庫県加古郡播磨町野添の自宅に土居光夫氏(昭和26年県兵庫高卒、38陽会)と共に訪ね神戸二中、県兵庫高野球部の思い出を語ってもらった。
『昭和3年のころは選手は毛糸の防寒具のようなものを着ていたが、マネージャーになってからはジャンパーを着るようになった。夏の大会にはOBがコーチとして来ていたが、私がマネージャーになったとき初めて学校の先生の馬場太郎さんという人が監督として指導をしてくれるようになった。
そのときに初めてバッティングケージと言うんですか、車のついたバックネットが使われた。入学した昭和3年の秋の御大典記念大会(阪神博覧会主催、全国選抜中等野球大会)で平安中、下関商、敦賀商の強豪を連破して優勝したのを覚えている。
大橋さん(政一氏=17陽会)がエースとして活躍していたが、そのときのカップが学校に残っていると思う。
関大の監督をしていた本田竹蔵さんに先輩の三輪(重雄氏=13陽会)が会社(鈴鹿商店=神戸で有名な社会人チーム)の関係で木村さん(関学OB=昭和10年全国都市対抗野球大会で全神戸が優勝したときのエース)今北さん(関学OB)ら鈴鹿(商店)の方たちを連れてきてコーチをしてくれた。
島田さん(叡=あきら=、7陽会。三高→東大。最後の沖縄県知事。別項)も一度練習に来て下さったことがある』70年以上も前のことをつい先日のように話す筒井氏。85歳、OB会の最長老である。
その記憶力は鮮烈を極める。『夏の大会は1年のときは決勝で甲陽中に3−4、2年は宝塚球場の準決勝で一中に5−7で負け、3年は甲子園で甲陽に0−16、ボロボロにやられた。余りにもひどい負け方に先輩達の間で大きな問題となった。そして、4年は2回戦で中外商に初めて負けた(2−9)。
5年のときは3回戦で明石中と対戦、楠本と先攻、後攻を決めるジャンケンをした。結果は0-10のコールド負け。卒業した昭和8年も2回戦で楠本、中田の明石に負けた。それからは1、2回戦に勝つのがやっとという状態が続いた』このころからにわかに戦雲急を告げ當然筒井氏にも〈赤紙〉=召集令状=が舞い込んできた。
昭和11年の夏を最後にユニホームから軍服に着替えることとなった。
戦争が終わり昭和20年筒井氏が軍隊から戻って来たときすでに二中では野球が復活していた。『22陽会の山脇(猛男氏=物故)30陽会の前田(正夫氏=物故)ら何人かがチームづくりにかかっていたようだ。
21年、大会を復活しなければ−ということで最初「OB大会」からと各中学からOBが甲子園に集ってきた。また市岡中におられた佐伯達雄氏(元高野連会長)が全国を回って中学校の野球連盟を作るため努力されていた。
兵庫県でも三中の賀須井さんが会長をしていて教頭の渡邉さん、のちの高野連の理事長、会長が中心になって組織づくりにかかり兵隊から帰ってきた先輩たちに聲をかけいた。二中関係では大橋さんと僕が参加した。連盟づくりに駆け回ったが、昭和24年からは本職の中学(教諭)の方が忙しくなりそちらの方に行ってしまった。
もしもあのまま高野連に関係していたら今も高校の世話をしていただろう』神戸二中、県兵庫野球部の〔生き字引〕は昭和24年を境に中学野球に方向転換したのだ。
しかし、戦後復活の直後母校に帰った筒井氏は4年の間に選抜二度出場という素晴らしい足跡を残している。『昭和23年、一旦選抜に出場が決まった滝川がプロのOBとの接触が明るみに出て取消し、代わって二中が出場することになった。
今から思うと幸運だったと思う。甲子園では早実と対戦。やっとの思いで勝ったが審判のジャッジがすっきりせずわけの分からないうちに勝ったという試合だった。
その次の相手は北野中学。鉄傘が取り払はれたままのスタンドは神戸と大阪の対戦とあって5万人が入場、文字どおり立錐の余地がないほどだった。一番印象に残っている試合だが、2−3で1点差負け。その年予選は決勝まで勝ち進み芦屋と雌雄を決することになった。
7回まで3−2とリードしながら8回に3点を取られて5−3で逆転負け。第1回大会以来の夏の甲子園を目前にしての敗戦だけに悔しかった。24年にも連続して選抜に出たが桐蔭の西村というすごい投手にやられた。
9回裏、0−3から2点を返してなお三塁に半田、打者藤池のカウントは2−1。次球、半田が一か八のホームスティール、タイミングはセーフに見えたが、濱崎審判のジャッジは非情にもストラックアウト、三振でゲームセット。
際どいところで同点機を逸した。この瞬間私の二中における野球は終わった−と言っていい』筒井氏はその年の秋の地区大会を最後に眞鍋(宗次氏、16陽会)に監督の座を譲って中学野球に転身した。
☆中村博一氏
昭和25年卒、37陽会
ナックスナカムラ社長 |
平成13年3月12日(月)
神戸ハーバーランド、ナックスナカムラ本社社長室で。
『37陽会、昭和25年卒業の私たちは終戦直後の混乱した社会の中で学生生活を送り、これ以上ないというほど悪条件のもとで野球をやっていました。総てで恵まれた環境にある今の後輩たちにはどのような手段をもってしても理解してもらえないでしょう。
日本の国全体がどん底にあったときですからね。そうしたなか昭和23年と24年に連続してセンバツ大会に出場したのですから野球部の歴史の1ページを飾る快挙と言ってもいいと思います。金はない、食べる物はない、着る物はない、住む家はない、国中が貧困の極みにあったのですから野球をするにも道具がないのは当然でした。
グローブも、ミットも、ボールも、バットも、ユニホームも何一つ満足な物はありませんでした。高架下にあった闇市で進駐軍(駐留軍)の払い下げと思える物を買い漁ってなんとか格好をつけたものです。
でも、今となればそうした苦しさのなかで野球をやったことは忘れて皆楽しい思い出に変わっています』中村氏はセンバツ出場の嬉しさとこれまでの長い年月が苦しかったことを忘れさせ楽しい思い出に置き換えてしまったと言う。
『私はマネージャーだったんです。ですからグラウンドでの思い出はあまりありません。しかし、強烈に脳裏に焼きついている試合があるんです。それは岡山県に遠征したときのことです。確か相手は秋山−土井のバッテリーの岡山東商だったと思いますが、なにしろ昔のことですからね』50年以上も前の記憶を手繰る。
試合内容かと思ったら全然関係のないことだった。《忘れられない》ことは『試合のまえの晩に米一升と一万円をもらったんです。センバツに出たときに一万円をもらったのですからそれから考えると大変な優遇?と言えます』財務を携わる大蔵省役のマネージャーとしては有り難かったに違いない。
そして『私個人にとって忘れぬことの出来ないこと、いやその物は泊った旅館で食べたイイダコ(飯蛸)の味です。美味しかった、その味はまさに天下一品でした。食べ物を扱う仕事をしていますが、あんな美味しいものにはその後お目に掛かったこと、いや、お口に掛かったことはありません。
イイがぎっしり詰ったタコの美味しかったこと、忘れられませんね』イイダコのシーズンになると岡山で食べたあの味覚が蘇ってくるそうだ。
『マネージャーの仕事は裏方で選手たちが安心してプレーが出来るようにすることです。いろいろあるなかで一番苦労したのはお金を集めることでした。あらゆるコネを頼って先輩を始め援助が頂けるところに行きました。
なかでももっともお世話になったのが、向井(同年の向井隆一氏)のお父さんでした。なにかあればすぐにご無理をお願いに行きました。だから私の主な仕事は向井のお父さんに会いに行くこと−と言ってもいいほどでした』
先生たちの思い出も。『軍事教官の森田先生のことは特に印象に残っています。終戦直後《戦争が終わったから野球をやろう》と私たちを元気づけてくれました。国文の松井先生。藤池先生。小柄な物理の藤戸先生、姉崎先生、体育の西沢先生など当時お世話になった先生方への感謝の気持ちでいっぱいです』
インタービューが始まったころは『昔のことは忘れてしまった』と口が重かった中村氏だが、ひとたび記憶の糸がほぐれると流れるように口を突いて“思い出”が出た。何歳になっても野球部で過ごした日々は楽しく蘇ってくるものである。中村氏の話ぶりがはっきりとそれを物語っていた。
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