[対県神戸高野球定期戦]
昭和33年5月24日(土)神戸市民球場
県兵庫 000 000 211=4
県神戸 000 000 000=0
(兵)328380080
打安振球盗犠残失
(神)281610021
【第40回全国野球選手権大会兵庫予選】
〈朝日新聞〉
昭和33年7月23日(水)神戸市民球場
▽2回戦
県兵庫 000 110 6=8
明石南 010 000 0=1
(7回コールドゲーム)
(県兵庫) 打安失 (明石南) 打安失
遊 中 谷 420 遊 中 島 302
中 長 野 410 右 本 堂 300
左 中 西 310 投 佐 藤 300
一 早 川 200 三 橋本英 310
二 常 深 210 捕 山 崎 210
捕 高 橋 300 二 増 田 202
右 尾 崎 420 一 桜 井 200
三 徳 田 410 左 宗 像 201
投 太 田 430 中 橋本武 200
振四犠盗打安失 振四犠盗打安失
454430110 120002225
▽三塁打=尾崎、橋本英 ▽二塁打=徳田 ▽併殺=明1
○…県兵庫は明石南の佐藤投手が慎重に低めをねらう直球とカーブを打ちあぐみ、明石南に先取点を奪われるなど前半は押され気味だったが、四回早川の四球を足場に盗塁、遊失で同点とし、五回は二死満塁のチャンスに押出しの一点で勝越し、さらに七回も安打を集め、六点を加えて大勝した。
○…明石南は二回無死橋本英の右前打がイレギュラーバウンドする幸運の三塁打となり、スクイズで一点を先取したが、その後は県兵庫太田投手の大きく曲がるカーブとコントロールのよい速球にバットが合わず敗れた。
昭和33年7月24日(木)甲子園
▽3回戦
夢野台 000 000 000=0
県兵庫 011 000 00X=2
〔夢野台〕 打安失 〔県兵庫〕 打安失
三 財 田 311 遊 中 谷 301
二 岡 田 410 二 常 深 100
遊 石 倉 402 右 福 田 310
中 松 本 400 PH 上 田 100
左投 林 400 遊 山 本 001
投右 西本 200 左 中 西 400
捕 森 本 310 一 早 川 410
右左 近藤 200 中 長 野 310
一 内 田 100 捕 高 橋 410
一 俵 200 二 大 石 200
右 尾 崎 100
三 徳 田 101
三 山 田 000
投 太 田 200
振四犠盗打安失 振四犠盗打安失
123012933 54002943
◇二塁打=福田 ▽暴投=林1 ▽併殺 兵1、夢1
○…二点をリードされた夢野台は九回、四球と岡田の安打などで一死、二、三塁の好機を迎えたが、期待された四、五番打者が三振に倒れ、万事休した。
前日の対明石南戦で好投した県兵庫太田投手は、この日八回ごろからやや乱調気味になったが、ドロップ、シュートで夢野台から12の三振を奪う力投ぶり。味方打線も二、三回と有効打を集めて各一点ずつ入れ、そのまま逃げ切った。
昭和33年7月26日(土)甲子園
▽4回戦
県兵庫 000 000 001 000 000 00=1
姫路南 000 100 000 000 000 01=2
(延長17回)
〔県兵庫〕 打安失 〔姫路南〕 打安失
左 中 西 620 中 墨 井 620
三 徳 田 630 三 山田修 611
中 長 野 600 右 本 田 700
一 早 川 710 左 津 田 710
二 常 深 610 一 石 井 610
捕 高 橋 500 投 井 上 620
右 尾 崎 600 捕 高 橋 610
遊 中 谷 201 遊 井 村 630
PH 上 田 100 二 山田康 300
遊 山 本 400 二 神 頭 301
投 太 田 400
振四犠盗打安失 振四犠盗打安失
195425371 1032156112
▽三塁打=津田、徳田、井上 ▽捕逸=高橋(姫)1 ▽野選=太田1
▽打撃妨害=高橋(兵)、井上
○…両チームとも力いっぱい闘い、4時間に及ぶ好試合だったが、姫路南は十七回無死で井上が左中間に三塁打し、井村が二塁オーバーの殊勲打を放ちサヨナラゲームとした。姫路南は四回、山田(修)の右前打と津田の右中間三塁打で一点を先取、なおも一死二、三塁とチャンスが続いたが得点できなかった。
○…県兵庫は七回初めて迎えたチャンスに三、四番が連続三振し、さらに八回の好機も逃したが、九回には徳田が力みすぎた姫路南井上に左中間三塁打を浴びせ、高橋の捕逸でやっと同点に持ち込み延長戦となった。
延長後は姫路南が押し気味に試合を進め、十四回二死でランナーを一、二塁において、石井が左前打したが、一挙にホームにすべりこんだ二塁走者山田は寸前に刺された。十五、六回両チームともそれぞれ一死二、三塁のチャンスを迎えたが後続打がなく、ようやく十七回に勝負がついた。
(昭和33年度優秀選手)中西富登司、太田紘一、中谷和弘
☆太田 紘一氏
立教大学中退後、1960年11月阪神タイガースに入団。
翌1961年にリリーフで初登板。その後、安定した中継ぎとして、毎年20〜30
試合程度に登板。防御率も2点台から3点代前半と安定している、カーブが武
器の投手だった。
1965年頃から登板数が減り始め、1967年には登板機会もなく自由契約にな
る。
阪急ブレーブスに入団するも、一軍登板することもなく1969年オフ引退。
生涯成績
登板114試合 勝利3 敗戦7 交替完了33 投球回157 奪三振66
防御率2.98
(出典:Wikipedia)
太田投手に関する昭和39年の新聞記事はこちら |
46陽会(昭和34年卒)
太田 絃一 投手
高橋 俊一 捕手
早川 博裕 一塁
大石 利和 二塁
常深 益男 捕手
中谷 和弘 遊撃
中西冨登司 左翼
長野 康一 中堅
尾崎 忠雄 右翼
菱田 豊 三塁
山本 幸平 三塁
瀬川 勝正 右翼
岩佐 正彦 マネ
[秋季県高校野球大会]
昭和33年9月28日(日) 神戸市民球場
▽1回戦
県兵庫 010 000 030=4
西 脇 000 100 000=1
(兵)3571031 中村、国本−山下
打安振四失
(西)275673 林−藤原
昭和33年10月12日(日) 甲子園
▽2回戦
県兵庫 010 000 000=1
育 英 000 002 11X=4
(兵)314400 中村、国本、井之坂−山下
打安振四失
(育)3211261 柏−中安
野球部に入部した我々は、硬式と軟式の違いに戸惑いながら日々の練習に取り組んでいましたが、ある日突然入部テストが実施されました。
それは、上級生がピッチャーマウンドを中心に半円に並び、新入部員は一人ずつホームベースに立ち、古ぼけたグラブを渡され上級生全員がマウンドから力いっぱい投げるボールを落とさずにキャッチすることでした。
なかには何度もボールを落とし手が腫れ上がり泣き出す者、耐え切れずに入部を断念する者も出ましたが、それを乗り越えた13人が晴れて入部を許されました。
上級生との体力,技術の違いを感じながら練習に取り組み、瞬く間に新チームを結成することになりました。上級生部員が4人と少なかったので、全員がユニホームをもらい、興奮しながら背番号をつけてもらいました
二年生になり上級生はいましたが、いよいよ我々の時代の到来です。しかし、気持ちとは裏腹に昭和32年の春季県大会は鳴尾に0−1で2回戦で敗退しましたが、チーム力は着実に伸び兵庫県大会では準々決勝で県工の新山投手が打てず0−1で惜敗(県兵庫のバッテリーは太田−高橋)しました。
32年の夏、強い日差しの中、長野主将を中心とした新チームの練習は、真鍋監督を始めとし、関係者の期待をひしひしと感じながらスタートしました。
連日のように日暮れ近くになると必ず先輩が指導に来られ、しごかれて顔を見ただけで逃げ出したくなったのは私だけではないでしょう。
順調にチームは仕上がり、秋季県大会では、2回戦、須磨高に3−2、3回戦、洲本高に4−0と勝ち進み準決勝戦で県芦屋と対戦−ところが運悪くというべきでしょうか、頼みのエース太田が指を傷め、そのうえ剛球・藤投手を打てず2−9で悔しい敗戦を喫しました。
翌33年は三年生。最後の年です。春季県大会は2回戦で敗れ、背水の陣で臨んだ兵庫県大会は2回戦、明石南に8−1、7回コールドゲーム勝ち、3回戦、夢野台2−0と勝ち進みましたが、4回戦の姫路南は井上−太田両投手の力投で9回を終わって1−1。
延長にはいってからは両チーム0を重ね17回に。ついに太田投手が打たれサヨナラ負け。
私たちの高校野球最後の試合は4時間に及ぶ大熱戦で幕を閉じたのです。相手の姫路南が優勝しただけに悔しさは人一倍でした。
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