杉村 伸氏=大正10年卒、9陽会=が《武陽通信44号》に次のように書いている。
『なつかしい二中の校歌「武陽原譜」−「名も千歳は」−は、創立当時の恩師で、佐賀の葉隠れ武士の流れを汲む故白井敏輔先生の作で、曲は軍歌『煙も見えず』であることは武陽人各位御承知であろう。=日清戦争当時の軍歌『勇敢なる水兵』とも言われている=尤もこの曲については、曽て海軍大将山梨勝之進氏が、艦長としてドイツを訪問した時、この曲を軍楽隊に奏させた処『日本の軍艦から讃美歌が流れてきた』と感心されたという事が、大将の思い出話にあったので、その後機会ある毎にキリスト関係者に聞くのであるが、まだわからない。クリスチャンの友から教えてもらいたい。』
☆この《武陽通信44号》の記事に対して早速反響があった。《武陽通信45号》に再び杉村 伸氏は筆を執っている。
田中忠雄君(大正10年卒、9陽会=行動美術審査員=)から次の通りの一文を受けた。
『武陽に出ていた貴君の校歌の曲についての疑問につき参考までにお知らせします。あの曲はもともとマーチ風なもので、18〜19世紀頃、ドイツあたりで作られたものではないでしょうか。プロテスタントは福音讃美歌として民衆にうたいやすくするため、世俗曲や行進曲に、信仰的な歌詞をつけてうたわせていた例が多く、バッハのカンタータにもその例があります。
アメリカにも多く、日本でも私の少年時代の讃美歌には沢山ありました。曲の性格からいうと、あのようなマーチ風なのは、そんなに古くない筈です。後略』
☆日本の軍歌の曲とドイツ讃美歌との間にどのような関係があったかは説明がつかない。その曲が昭和23年野球部が春の選抜に出場、早稲田実業に勝ったあと校歌として甲子園球場で演奏された際スタンドに異様などよめきが起こったという。戦争が終わった直後のこと『軍歌の曲なんてとんでもない』と思った人が多かったからだろう。〈讃美歌〉〈軍歌〉この錯誤をどう説明するか、人それぞれ感じ方、受け止め方によって違うが、ともかく当時は〈軍歌〉としての先入観があったので“軍国調”と解釈した方のが多かったようだ。そのため『当時の音楽教師だった南山先生が曲を変えて翌年の選抜に臨んだと聞いている』(構 擴司氏=昭和18年卒、31陽会)しかし、24年は1回戦で桐蔭高に敗れ甲子園での校歌吹奏はなかった。一説によると校歌の代わりに野球部歌を−ということも考えられていたと。
☆昭和24年、学制改革で〈新制高校〉になり[兵庫県立兵庫高等学校校歌]が作られた。だから《武陽会、野球部》では神戸二中校歌、兵庫高校校歌、野球部歌を臨機応変歌い分けているという。時が経ち神戸二中(第二神戸中)の卒業生が少なくなるにつれてその校歌は消滅の一途を辿ることになる。
[兵庫県立第二神戸中学校校歌]
作詞者 旧職員 白井 敏輔氏
作 曲 ドイツ讃美歌
[兵庫県立兵庫高等学校校歌]
作 詞 本校国語科教官合作
作 曲 20陽会卒業生 網代栄三氏
また、杉村氏は『野球部歌』について《武陽通信44号》で
野球部歌の『大空高き』は、創立当時野球部長であった池田多助先生(後の神戸一中校長)の作で曲は一高の寮歌である。二中の野球部と一高の野球部とは第1回卒業生(大正2年卒、1陽会)の故菅和三郎氏(楠公前菅園の出身、外交官として有名であった)が、一高でも野球選手をしていたので、コーチを往年の名投手の谷本氏=大正4年は遊撃手、五番、大正5年以降は投手、五番。東大に進んだ大正7年3月の一高戦では捕手、二番の記録が残っている=に頼んだのが始まりである。
後年神戸の裁判官をしておられる谷本氏に会った時『一高では軟式庭球は女性的だとして排斥したした。それでも庭球をやる奴があるので憤慨した男がコートに人糞をまいた事もあった。ところが菅君から聞くと神戸二中もあらゆる運動は正課に準じてやらせているのに、庭球はやらせないとの事で、それは面白い学校だと感じてコーチに行った』との事であった。
と書いている。《武陽通信44号》は昭和45年10月の発刊なのでその後新しい事実が判明しているかも知れない。ともあれ野球部歌の曲は一高の寮歌であることは違いないようだ。 |