昭和17年(30陽会)1942年

NO2

☆構 擴司氏  昭和18年神戸二中卒、31陽会
          大正
14423日生まれ
 

 戦後間もなく神戸新聞に入社、社会部、運動部を経て昭和24年デイリースポーツの発刊に伴いプロ野球記者に。昭和33年開局したばかりの関西テレビに移籍。スポーツ、報道を歴任。昭和55年定年後、サンケイスポーツに。昭和60年、40年間にわたるマスコミ界から退く。 

 第二次世界大戦最中の思い出を紹介します。昭和16年ころまではバット、ボールなどは事足りていましたが、1612月8日大戦に突入以来、戦局の激化とともに物資不足は日を追って野球用具にまで深刻さを増してきました。試合球はどうにか間に合わせることが出来ましたが、とても練習球にまでは及びませんでした。

 練習は豚皮になり、當然品質は粗悪なものになりました。ニューボールを打ってもボコンという鈍い音。打った手応えの悪いこと、あのカーンという快音は聞かれなくなってしまいました。そんなボールですからバッティングピッチャーのグローブに戻ってきたときは、オーバーな表現ですが、歪んで楕円形になっていました。もう一度打つと元の円形に−といったことの繰り返しでした。

 ユニフォームは繊維不足の影響を受けて国策に添ってスフ入り(現代の人には分からないだろうが、布製品が不足したため代用の化学繊維を混入、あるいはそのもので作ったもの)新品のうちは糊付けで見栄えはいいが、ひとたび水を通すとペロン、ペロンになりとても布の代わりを果せるようなものではありませんでした。
 またスパイクも牛皮から豚皮に変わり、一週間も履くと型崩れして駄目になってしまう。だから練習は普通のシューズ、試合のときだけスパイクを履いていました。

 昭和17年のチーム編成は5年生6人がレギュラーでした。ちょうどそのころは新校舎の建築中でグラウンドを求めてあちこち渡り歩きました。マネージャーの椿井正彦氏(故人)が日々東奔西走、大変苦労していました。そのお陰?で他流試合の機会が多くなり、一石二鳥、実戦練習になって実力アップに大きく役立ちました。

 そして一中との定期戦に2−1で勝ち、自信を付け、夏の予選に臨みました。朝日新聞主催の大会は前年の昭和16年で中断して17年は《第一回全国中等学校体育大会兵庫予選》になっていました。

 1回戦、三田中に
11−0、2回戦中外商を9−1とともにコールドで破り、3回戦、北神商を1−0の接戦で下して準決勝で優勝候補の滝川中と顔が会いました。当時の滝川中にはのちにプロ野球に入った小林−阪田のバッテリー、尾西遊撃手と素晴らしいメンバーをそろえる強力チームでした。

 結果は1−
11の大敗。二中での野球は終わりました。“よくぞ頑張った”と自分に言える思い出深い野球部生活でした。

 最後に31陽会のメンバーで亡くなられた葛目博享、椿井正彦、岩崎 睦、小出誠一、本城唯一諸氏のご冥福を祈りながら筆を置きます。(平成1210月現在)
 

☆鈴木(旧姓岩崎)謙一氏  昭和19年神戸二中4年修業、33陽会
  大正
15年(1926)4月3日生まれ
  昭和
15年(1940)4月、第二神戸中学入学
  昭和
19年(1944)3月、4年修業
  昭和
19年4月、  旧制姫路高校文科に入学
  昭和
22年(1947)3月、同高校卒業
  昭和
22年4月、  東京大学経済学部経済学科入学
  昭和
25年(1950)3月、同校卒業
  昭和
26年(1951)4月、日本経済新聞社入社。
            大阪本社(当時支社)編集局経済部勤務、ニューデリー特派
            員、大阪本社編集局経済部長、編集局長、論説副主幹を歴任
  昭和
55年(1980)3月、同社退社後、鈴木歯科器材株式会社社長。
  昭和
62年(1987)4月〜平成8年(1996)3月、摂南大学経営情報学部教授。
  平成
12年(2000)現在、甲子園大学経営情報学部客員教授、芦屋大学非常勤講師。

 〔哀愁ただよう野球人生〕
 
昭和
26年度の日本経済新聞社記者採用試験の作文で「人生の悲哀」をテーマにしたことを覚えている。どうしてこういうテーマを選んだのか。どうやら学生時代の野球人生と深くかかわっているようだ。

 昭和15年、神戸二中に入学してただちに入部。三年生の時にレギュラーになり、3年負け続けていた神戸一中との定期戦に臨んだ。「今年こそ」と勝利を誓って早朝練習を含む猛練習を行い、その成果があって、どんでん返しの勝利を掴んだ。

 同級生の木村治朗君の起死回生の一打が忘れられない。その余勢をかって朝日新聞社主催の全国中等野球大会に代わる文部省学振主催第一回全国中等学校体育大会兵庫予選で準決勝まで勝ち進んだ。そこでは優勝校の滝川中学に敗れたが、予想以上の成果をあげて悔いはなかった。

 こういう華々しい野球部生活を送りながら何が悲哀なのか。第二次世界大戦の戦局はますます緊迫し、昭和18年、とうとう「敵性スポーツ」の烙印を押されて野球部は廃止になった。この悲しい報せを四年生の一学期、胸を患って病床にいる時に受け、本当にやるせない思いをしたものである。

 昭和19年4月、病も治り、旧制姫路高校文科に入学した。文科生に徴兵延期はなく、昭和20年6月に入営した。そして終戦、翌昭和21年、伝統のインターハイが復活した。
 私は最高学年の三年生だったから、先輩の後ろ盾で野球部を再建し、主将で投手で四番打者と文字通り大黒柱になった。

 しかも関西地区大会でやはり準決勝戦で優勝校の浪速高校に延長戦の末、惜敗するなど心おきなく戦うことができた。卒業後も大学生として二年間、姫高野球部の監督を務めた。だが、今度は新制大学への学制改革で姫高野球部は廃止になった。

 今までも、先輩後輩に支えられ空腹をかかえて頑張った学生時代の野球人生を思い出し「よくやった」とひとり微笑むことがある。同時にそれには野球部廃止のほのかな哀愁がつきまとっている。