昭和13年(26陽会)1938年

NO5

《武 陽》
☆新チーム成績☆
◎第一回對第三神港商業戰

 昭和13年9月10日(土)第三神港商業
 神戸二中 22−9 第三神港

 〔二 中〕     〔三 神〕
 2 立 花 44打32 6 中 本
 5 本 根 22得9 5 小 池
 6 宮 村 10安4 7 吉 村
 1 小 林 16盗0 898 水 村
 7 橋 本 4三3 1891齋 藤
 9 小 室 10四9 3 田 村
 9 鈴 江     94 福 本
 4 村 上     4 津 田
 8 井 上     19 糟 谷
 3 枝 吉     2 別 府

 △本壘打=小林△三壘打=枝吉、立花△二壘打=枝吉2

◎對縣商戰
 神戸二中 000 000 001 000=1
 縣  商 100 000 000 001=2

 (延長12回)

 〔二 中〕  〔縣 商〕
 立 花 36打35 竹 本
 枝 吉 1得2 高 嶋
 宮 村 4安3 矢 頭
 小 林 1盗0 池 野
 橋 本 10三6 大 西
 本 根 4四5 岩 田
 井 上     山 尾
 村 上     田 口
 猿 丸     今 尾
         今 市
 △二壘打=池野

◎對第一神港商業戰
 神戸二中 14−7 第一神港

 〔二 中〕 打得安盗三四
 7 枝 吉 512102
 52 本 根 610141
 21 立 花 511012
 6 宮 村 612010
 15 小 林 533001
 3 猿 丸 220004
 8 井 上 511000
 9 小 室 410011
 PH 枝 川 010001
 9 柳 田 000000
 4 村 上 321022
     計 4114102914

 〔一神港〕 打得安盗三四
 3 常 徳 311013
 5 清 水 512011
 2 平 松 401101
 1 佐々木 501000
 8 山 下 411131
 4 奥 野 410031
 6 三 宅 210013
 9 竹 内 111003
 7 城 井 310002
     計 31771915

 △二壘打=小林、村上、平松、佐々木

◎對村野工業戰 三中上運動場
 神戸二中 6−5 村野工業

 〔二 中〕    〔村 工〕
 2 立 花 34打30 2 櫻 井
 7 枝 吉 6得5 9 船 曳
 9 小 室 3安4 8 西 永
 1 田 中 0盗3 6 横 田
 6 宮 村 1三16 7 荻 野
 9 橋 本 7四8 5 後 藤
 3 猿 丸     3 景 山
 4 村 上     4 西 田
 87 井 上     1 中 河
 5 本 根
 △三壘打=枝吉、船曳△二壘打=後藤、櫻井

☆痛快一中に勝つ
 昭和13年10月23日(日)甲子園球場
 神戸二中 002 000 010=3
 神戸一中 100 010 000=2


 遂に春の準優勝戰の復讐の機會はやって来た。見よ我軍は見事復讐を成した。是は我等選手一同一致團結して正々堂々戰った為ばかりでなく校友諸君の熱烈なる應援の為であらう。深くその聲援を謝す。

〔戰跡〕(二中)一、二回は凡退したが三回村上四球、本根投匍に生き宮村投前バントして走者進壘し中村三遊間安打して村上、本根還り二點を舉げ、更に八回宮村、枝吉の安打と田中の中前安打で一點を加へた。

(一中)一回石井の四球と梅原の右前安打で一點入れ五回福井四球に出た後井上の安打と逸見の安打で一點を加へたがそのまゝ點入らず一中軍を倒す。

◎對縣立商業戰 昭和13年11月19日(土)神戸市民球場
 前回と同様1−2で惜敗す。

◎對報徳商業戰 昭和13年11月23日(水)神戸市民球場
 報徳商業を堂々4−0ノーヒットノーランにてやぶる。

◎對育英商業戰 昭和13年11月27日(日)西宮球場
 強敵育英と善闘して3−4で惜敗す。
 
☆池田精一氏
  大正
10年5月26日生まれ、昭和14年卒、27陽会 神戸高商卒
  ジャパンエキスプレス副社長を経て相談役
  財団法人全日本軟式野球連盟副会長
  兵庫県軟式野球連盟会長
 

 平成12年9月12日(火)神戸市中央区ジャパンエキスプレス社で。
 『私が二中で野球始めたのは昭和
12年で最初の予選は無残な1回戦コールド負けでした。中外商相手にいきなり先発の藤井さんが四球を連発、その上ヒットは打たれる、急遽私がリリーフしたんですが、火に油と言うんですか、私もノーコンで四球を連発してまた藤井さんと交代したんです。

 1回を終わったら
10失点。7回で思いも掛けなかった1−10の敗戦、悔しいやら恥ずかしいやら。翌13年、投手になってやっと自分と二中の野球が出来るようになりました』池田氏は日焼けした顔をほころばしながら二中時代の思い出を話始める。とても77歳とは思えない頑強な体躯からマウンドでの姿をほうふつさせる。

 『別当(薫氏。甲陽中−慶應を経てノンプロ、プロ野球で活躍)と同世代でした。13年2回戦で姫路商をコールドで破り、3回戦で明石中と対戦8−5で勝ったんです。
 当時の新聞に《明中不覚の敗戦》《輝く神二中の殊勲》と書かれました。下馬評を覆す勝利だったんですね。つづく準決勝で甲陽と顔が会い私と別当の投げ合いになったんです。

 互角の勝負でしたが、味方打線がシャットアウトに封じられ0−2の惜敗でした』池田氏は知人から送ってもらった当時の新聞記事を大事に保管していると言う。そして気が向けば取り出して
60年以上も昔の自分の姿を懐かしく思い浮かべているそうだ。

 『甲子園、西宮球場に神戸市民、明石球場を使っていたが、いい球場に恵まれていました。世間には戦雲が漂っていましたが、なぜか私らには戦時色は感じなかったですね。私を支えてくれたのが1年下のキャッチャー中村君(善也氏、28陽会)でした。

 練習が終わってからも遅くまで受けてくれました。今から思うと彼のお陰でピッチャーをつづけることが出来たと思います。本当に感謝しています』バッテリーは一体のもの中村捕手あっての池田投手というわけか。

 『男ばかりの兄弟4人、長男の芳蔵(昭和4年卒、17陽会)と三男の私が二中に入り、二男と四男は市神港に進み皆野球をしているんです。周囲がこういう事情なので私が二中に入って野球をするようになったのは小学生のころからすでに決まっていたわけです。ただ敷かれた路線を私が歩いただけなんです。

 神戸高商まで野球をやり会社に入ってからは軟式でやって来ました。終戦後会社(ジャパンエキスプレス)のチームを連れて中国(北京)に行ってきました』会社では軟式野球の発展に貢献、『平成
10年度軟式野球スポーツニッポン賞』を受賞している。
 現在も(平成
12年)軟式野球界の重鎮として前記の要職にある。野球とは永遠に縁が切れない池田精一氏である。
 

【墓碑銘】
  ☆前田邦夫氏  
   大正
11年3月4日生まれ   昭和14年神戸二中卒、27陽会

   旧神戸二中卒、神戸高商卒、大東亜戦争終戦、(株)神戸製鋼勤務、停年退職
 

平成111128日午後7時50分、近畿中央病院で老人性の風邪が原因で死去。満77歳。平成12年9月、夫人からのお手紙が届きました。

『前略、私、前田邦夫の家内でございます。
 生前中、在学中スポーツ好きで何事にも誠実、真面目、頑固で鍛え抜いた元気な人でしたが、息子幼き頃はよく相手にノックをしたり、キャッチボールをしたりと。停年退職後は時々甲子園等野球の應援に出かけたり、テレビを楽しみ勝てばゴキゲンでした。

 兵庫県淡路、阪神大震災後から弱りまして老人性の風邪がもとで家庭養生、入、退院をして近畿中央病院の病床にて昨年、平成111228日午後7時50分、家族の見守る中旅立ち帰らぬ人となりました。満77歳でした。

 苦楽の道を共に歩き續けて50年、長かった様で短く思い出等々浮ばれましてあっけなく、さみしいものと思います。長い間御苦労様、有難うございましたと、冥福を祈っております。

 生前お世話になりました皆々様の御厚情、心から感謝申し上げます。
 差し出がましくする事のきらいな人でしたので私のつたなき文にての失礼をお詫び申し上げます。御連絡まで。
 野球部、兵庫高等学校の益々の御発展と御多幸を御祈り申し上げます。
                               かしこ。前田内』

☆野球部員☆
 五年生=山本一郎(陸士入學)池田精一、青田八郎、芝山貞雄、中村威男、
     山崎一朗、熊谷彌一郎。
 四年生=主将・立花照也、枝吉 完、中村善泰、宮村 研、本根一衛。
 三年生=小林幹治、村上安正、井上玄太郎、小室芳保、猿丸安之、鈴江喜伴。
 二年生=柳田創三、金 誠燻、前田正夫、山口 力、福島基弘。
 一年生=枝川信夫、本城唯一、上山勝美、松本 博、構 擴司、葛目博亨、
     小出誠一。

27陽会(昭和14年卒)
 池田 精一    投手
 中村 威男    右翼
 大野 隆史    
 山本 一郎    二塁
 前田 邦夫    
 芝山 貞雄    左翼
 山崎 一郎    
 熊谷弥之助