昭和27年(40陽会)1952年

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昭和27年11月12日(水)付神戸新聞は次のような片岡投手の巨人入りを伝えている。
・片岡投手 巨人入り
  第二の別所と大きな期待

 芦屋高の植村投手と並び高校球界に豪速球をもってうたわれ今春兵庫高から早大に入学した片岡節次郎投手(19)はこのほどセ・リーグ巨人に入ることに決定した。巨人では来シーズン早速一軍で使うと高く買っている。身長六尺、体重十七貫、第二の別所といわれ将来を期待されている。


 

 

  

☆片岡節次郎氏 昭和27年県兵庫卒 39陽会 
                 平成8年6月12日死去(享年63歳)

◎ 豪放磊落(ごうほうらいらく)−の言葉がぴったりの片岡氏だが、その裏には想像
   出来ない精細な神経も持ち合わせていた。意識して強がっていた面も。それが毀誉
   褒貶の因になっていたようだ。

  彼の指導を受けた後輩たちは誰もが口をそろえて「怖かった」と言う。
 厳しい練習は時にはシゴキを思わせるものがあった。しかし、自分が成しえなかった
 甲子園への道を少しでも近づけようという気持ちが厳しさになったのだろう。

◎ ともかく彼の人生は破天荒そのものだった。昭和27年に卒業、早稲田大学に入学
 したというニュースが耳に入ったと思ったら〈巨人入団〉しばらくすると野球の神様
 川上哲司氏と衝突。怖いもの知らずの彼は人にへつらうということは出来ない人間だ
 った。
  だから相手が神様であろうと自分の考えと違えば向かって行く。そして自分の立場
 を悪くする−結果がどうなろうとただ自分の意思を突き進める。
  ある面では羨ましい性格の持ち主であった。

  折角神戸二中の先輩宇野庄治代表の努力であこがれの巨人に入りながら国鉄スワロ 
 ーズに移籍することに。足に故障が発生。プロで野球を続けられなくなり国鉄を退
 団、サラリーマンに転身。
  結婚して男二人の子供をもうけたが夫人は死去、箍(たが)がはずれ奔放さは度を
 増した感があった。

◎ 三ノ宮で〔武陽〕というスナックを開いたが、体調を崩して閉店。趣味のアメリカ
 映画のポスターを扱う会社を作ったが、摂生という言葉を知らない彼の生活は死への
 道を突っ走らせることに。平成7年に手術を受け『年内はもたない』と言われていた
 が、驚異的な回復を見せ翌年GS神戸によくオリックスの試合を見に行っていた。

  しかし、平成8年4月2日、巨人の後輩でありファンであったダイエーの王監督と
 会う約束をした日に最後の強制入院。当日の朝『あかん、また入院や。一日延ばして
 くれいうたんやがダメや』の電話。これが彼との最後の会話になった。
  無念のキャンセル、王監督との対面はならなかった。

  そのことを王監督に伝えると即座に色紙を書いてくれた。それが彼の手に届いた時
 はすでに息を引き取ったあとだった。そのまま霊前に飾られた。

 『ワンちゃんに会いたかったなあ。楽しみにしていたのに。残念や。がんばれと言う
 といて』夢のなかに出てきた“カタキン”は王監督と話せなかったことを悔しがって
 いた。天国か地獄どちらにいったかわからないが、地獄の鬼とは喧嘩したらあかん。
  静かに寝ておれ。カタキン。
                      野瀬芳雄氏[村野工・関学OB](記)