昭和25年(38陽会)1950年

NO3

 ☆岸本能宏氏 昭和26年卒、38陽会

 昭和24年夏。春の選抜大会2年連続出場という栄光を背負った37陽会を中心とした
チームが夏の県予選3回戦市姫路に敗れたあと、私たち38陽会を軸にした新チームが発足し、私が主将に選ばれました。

 そして、一日も早く旧チームのレベルに追いつきたい一心で夏休みを返上練習に明け暮れた。雨の少ない暑い夏だった。

 終戦直後の二中1年生3学期に入部以来、数々の思い出を綴ってきた野球部生活だったが、最後の1年は特に印象深く、二中創立以来初めての試みであった修学旅行も近畿大会予選のため参加せず、翌年夏の県予選準決勝で明石高に敗れるまでただひたすら野球に打ち込んだ私たちの青春がそこに濃縮されていた。

 “男女七歳にして席を同じうせず”という教育を受けて育った私たちにとって県四との合併により兵庫高校として男女共学が出現したことは衝撃的な出来事であった。
 女生徒との自然な付き合い方が分からず、あえて背を向けて野球だけに集中したふりをしていたが、神戸高との定期戦の全校応援で大勢の女生徒の見守るなかでプレーしたときの晴れがましさなど今思い出すと気恥ずかしい思いがする。

 あれから半世紀が過ぎ、仲間も皆ビジネスの第一線を退いている。今も年に数回集っているが昔のままの徒名で呼び合っているが、そこには青春の残滓が残っているのを感じる。

 選抜大会をテレビ観戦しながら、身体的にも技術的にも私たちのころより遥に進歩した球児がボールを追いかけ、グラウンドを駆け回る姿に昔の自分をオバーラップさせてしまうのは私だけではないだろう。今一度《HYOGO》のマークを胸に付けた選手たちがテレビに写る日を夢見ている。

  ☆土居光夫氏 昭和26年卒、38陽会

 小学生のころは『神戸二中に行ってラグビー部に入り有名選手になる』ことが夢でした。その理由は兄の親友が二中−慶応を通してラグビーで活躍した素晴らしい選手がいたのと家族が機会あるごと試合の応援に行っていた周囲の環境にあったからです。

 昭和20年3月の神戸大空襲で家が全焼して田舎へ。終戦になり神戸に戻って神戸二中に復学、目標通りラグビー部に。ところが違う道へ進んでしまうんです。
 校内野球試合でのプレーぶりが目立ったのか野球部から誘いが。今でもはっきり分からないのですが、何故かラグビーのことは頭のなかから消え野球のユニホームに袖を通していたんです。これが以後野球と長い間関わりを持つスタートになったのです。

 昭和24年二年のとき選抜に出場、甲子園の土を踏むことができました。
 三年の県予選は準決勝で明石に敗れ高校野球は終わりました。そして、関学大の四年間、8シーズンで関西六大学(旧)で春三回、秋一回の優勝に貢献することができました。

 昭和27年、神宮球場での第1回大学選手権大会で準優勝、私の野球人生は順調そのものでした。社会人野球でも昭和34年大阪代表として都市対抗野球大会(後楽園)に出場3位(黄獅子旗)を獲得と悔いのない現役生活を送ることができ自分としては満足の行く道程でした。

 個人記録としては他に例を見ないものを残しているんです。昭和29年秋の立命戦で紀藤投手の投球を12球ファウルしたあとの19球目を左前に安打したんです。正式な記録が残っていないのが残念です。

 平成10年のある日、関学野球部である時期共にグラウンドで汗を流した野瀬先輩と久しぶりに街で会ったのです。そのとき『関学野球部百年祭の行事の一環として野球部史を作成している』ことを聞いたのです。そしてたまたま取材に行く先輩が関学野球部OB最長老の三輪重雄氏(93)、三輪氏は神戸二中のこれまた最年長のOBでした。

 そこで私も同行することに。全く年齢を感じさせない明晰な記憶力で素晴らしい話を沢山聞かせて頂きました。二中と関学の生きた歴史書といった感じでした。そのときです。『神戸二中・兵庫高校も野球部史を作ろう』と頭にひらめいたのは。

 平成10年の第80回全国高校選手権記念大会の入場式に関学高、県神戸と兵庫県から3校が皆勤校として招待され入場行進に参加、伝統の重さをひしひし感じたものです。
 この伝統を後輩にきっちり残さないと−部史作成の気持ちは固まりました。早速武陽野球部役員総会の承認を頂き以後関係各位の協力を得て本格的に行動を起こし発刊の運びになったのです。

微力ながら参画することができ《神戸二中・兵庫高校野球部》の歴史を未来につなぐことができたことを嬉しく思っています。
 野球と出会い、野瀬先輩との偶然の出会い=この二つの出会いが部史を作る決定的なきっかけとなったなったのです。
 私自身の集大成になった。