昭和61年7月23日(水)神戸市民球場
▽3回戦
県兵庫 000 000 000=0
市神港 000 000 20X=2
(県兵庫) 打安点 (市神港) 打安点
H 奥 谷 400 E 宮 崎 300
G 小 林 400 G 伊 藤 410
E 合 田 420 B 市 原 400
D 山本秀 420 D 阿 部 300
C 嶺 山 410 H 山 本 200
F 白 井 200 A 窪 田 321
B 山本浩 300 C 神 行 210
A 上 倉 310 4 乙 丸 001
@ 中 川 200 @ 文 野 320
F 横 山 300
計 3060 計 2762
(兵)1110251
振球犠盗失残併
(神)7121142
▽暴投=中川2 ▽2時間5分
〔評〕市神港は七回一死後、遊失、四球、暴投に恵まれた二、三塁で窪田が二塁手の頭上を越す右前打を放って待望の得点をものにした。なお一、三塁で次の乙丸も中犠飛を上げ、試合を決める2点を取った。それまでの市神港の好機といえば六回の二死三塁ぐらい。幸運を拾い取った。
逆に兵庫は七回一死から二つの快打を連ねる絶好機をつぶした。逸機のあとのピンチとはよくいわれる通り。遊撃のエラーは凡ゴロをグラブ内でファンブルさせたもの。
その走者を中川のうまいけん制で一、二塁間に挟んだのに二塁手が深追いして生かす不手際まで重ねた。魔が差しての墓穴というほかない。好投の中川が気の毒だった。
◎昭和61年秋季地区大会◎
8月22日(金)育英第二
〔中神戸〕
▽2回戦
鈴蘭台 000 002 0=2
県兵庫 053 011 X=10
(7回コールドゲーム)
(鈴)稲本−岡本
(兵)伊福−上倉
8月28日(木)神戸甲北
▽準決勝
県兵庫 010 020 000=3
神戸弘陵 102 100 00X=4
(兵)伊福−上倉
(弘)林、米村−溝下
8月30日(土)育英第二
▽敗者復活3回戦
県兵庫 200 000 000=2
村野工 002 020 00X=4
(兵)伊福−上倉
(村)保喜−清水
74陽会(昭和62年卒)
中川 浩二 投手
山本 浩司 一塁
合田 亮一 遊撃
白井 健 左翼
小林 正明 中堅
岡田 孝介 左翼
宗和 卓史 捕手
若木 真司 三塁
野上 康久 二塁
川原 博文 二塁
川瀬 達也 外野
源 明夫 一塁
折田かおり マネ
大西美知代 マネ
私は今、神戸高校との定期戦の連勝を12でストップさせたビデオを見ながら、この原稿を書いています。先輩たちが積み重ねてきた栄誉ある連勝記録を止めてしまった悔しさ、全校生徒が応援してくれた中での敗戦という恥ずかしさを感じたのは私だけではなかったでしょう。
相手の鎌仲君はプロ野球からの誘いを受けた超高校級の投手でした。我チームのエース中川君は2点を取られましたが、鎌仲君に負けないピッチングを見せ惜しくも1−2の僅少差負け。しかし、私たちが先輩たちのチームより劣っていたとは思っていません。
最後の夏の大会も、1年先輩がベスト16まで勝ち進んだのに対し、私たちは3回戦であと1本ヒットが出ず、勝てない相手(市神港)ではなかったのですが、0−2の完封負けを喫し悔しい思いをしました。12人の仲間、2人のマネージャーと苦楽をともにした野球部での日々は生涯忘れることはできないでしょう。
どうしても忘れられない出来事−それは神戸高校との定期戦です。定期戦は、夏の県予選と並ぶ重要な試合です。しかも私たちの学年が3年生になるまでは12年連続で勝利を収めていました。その大事な定期戦に負け連勝にピリオドを打ってしまいました。
相手投手がプロ野球に注目されていたということもありましたが、善戦の結果の力負け−と思っています。試合が終わった後、それから翌日と、本当に言いようのない虚脱感に襲われたのを覚えています。先輩方が築き上げてきた伝統というものの重さを、改めて思い知らされました。
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