昭和60年7月27日(金)尼崎記念球場
▽5回戦
県兵庫 200 000 000=2
明石南 001 003 00X=4
(県兵庫) 打安点
F 林 410
C 小 谷 300
E 合 田 310
A 藤 村 422
D 松 尾 400
H 倉 本 400
B 松 岡 200
3 木 戸 000
G 小 林 300
@ 中 川 200
H 山 本 110
1 伊 福 000
計 3052
(明石南) 打安点
G 本 田 400
E 笹 川 300
D 石 田 410
F 滝 本 312
H 松 井 411
B 西 島 400
A 振 角 310
C 北 山 300
@ 平 山 311
計 3154
(兵)8210340
振球犠盗失残併
(明)1310170
▽三塁打=藤村、滝本 ▽二塁打=石田 ▽1時間44分
〔評〕横手投げ中川の球道が急に甘くなった六回、明石南は一死後笹川が選び、石田も粘って左中間を割った。浮足立った中川の0−2後の棒球を待ち構えた滝本が狙い打って右中間を破り見事逆転に成功する。
なお松井も0−2から中前にはじき飛ばし滝本をも迎え入れて一挙に優位にたった。以後平山の下手投げも一段とさえ連続三振などで兵庫につけ入るスキを与えず、悠々押し切った。
兵庫も初回には一死一、二塁で藤村が左中間三塁打を飛ばし文句なく2点を先行するなど前半は押していた。中川も五回までは1点しか許さぬ好投を演じていただけに惜しい敗戦とい
える。
◎昭和60年秋季地区大会◎
〔中神戸〕
8月23日(金)育英第二
▽1回戦
県兵庫 020 111 100 1=7
夢野台 010 003 110 0=6
(延長10回)
(兵)中川−上倉
(夢)平沢−栩原
8月25日(日)神戸甲北
▽2回戦
長 田 000 000 100=1
県兵庫 000 000 000=0
(長)三好−二星
(兵)中川−上倉、宗和
8月27日(火)育英第二
▽敗者復活1回戦
神戸弘陵 000 020 000=2
県兵庫 000 000 000=0
(弘)多岐−堺
(兵)中川−上倉
73陽会(昭和61年卒)
部長 福原 亮
監督 上月 賢三
飯田 直樹 外野
木戸 一成 一塁
倉本 誠 外野
小谷 真 二塁
中崎 公司 三塁
中西 長武 投手
林 武 外野
藤村 圭祐 捕手
松尾 聖司 三塁
松岡 清彦 一塁
高橋八州子 マネ
(旧姓 大垣)
井口 陽子 マネ
(旧姓 寺井)
私たち38回生(73陽会)が、最上級生として新チームをスタートさせたのは、昭和59年7月県予選で琴丘に敗れてからです。
新チーム結成後最初の公式戦、中神戸地区大会では、初戦で鈴蘭台に、敗者復活戦でも長田に敗退、これからどうなるのかーと全員が危機感を抱いたものです。
その後、練習試合で好成績が続き、筋トレやランニング、ティー打撃中心の冬の練習を経て臨んだ翌60年の春の地区大会では、初戦で長田、2回戦で兵庫商業、準決勝では強豪育英に勝ち、決勝で村野工業に敗れ、西神戸地区で舞子に敗れ、惜しくも県大会には出場できませんでした。
神戸校との定期戦では、まったく危なげなく大差で勝ち、私自身初回にタイムリーヒットを打ったことが印象に残っています。
夏の兵庫大会では、明石西、千種、尼崎東とすべて1点差で勝ち。5回戦の明石南戦では逆転負けしましたが、ベスト16入りしました。また、幸運にも3回戦の千種戦で甲子園球場での試合を経験することができました。
個人的には、夏の大会では全く活躍することができず、明石南戦で守備でミスをしたうえ、最後の打席も三振で終わるなど、悔しい思いをしたことを覚えています。
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