昭和49年(62陽会)1974年

NO2

[秋季県高校野球大会]
昭和49年9月23日(月)神戸市民球場
▽1回戦
 県兵庫 001 000 000=1
 尼崎西 000 000 000=0


(兵)上山−嘉地
(尼)浅田−山口

昭和49年10月7日(日)明石球場
▽2回戦
 県兵庫 200 010 002=5
 市 川 010 020 010=4


 (県兵庫) 打安   (市 川) 打安
 C 平 川 51   C 山 下 41
 G 田中二 52   A 永 沢 30
 E 田中一 41   G 宮 田 51
 @ 上 山 52   E 平 仲 31
 B 大 賀 42   B 花 房 42
 A 嘉 地 41   H 大内田 21
 F 菅 沢 41   D 三 木 21
 H 浜 野 30   @ 米 田 31
 9 山 口 31
  振球犠盗失      振球犠盗失
  403323711    28433278

 ▽三塁打=田中二 ▽二塁打=上山、平仲、田中一

昭和49年10月10日(木)神戸市民球場 (審判)松尾、林、谷川
▽3回戦
 県兵庫 000 000 001 010=2
 報 徳 001 000 000 011=3

 (延長12回)

 (県兵庫) 打安点
 C 平 川 510
 G 田中二 411
 E 田中一 410
 @ 上 山 400
 B 大 賀 401
 A 嘉 地 510
 F9797菅沢 400
 H 浜 野 200
 H97979山口 310
 D 井 上 500
     計 4052

 (報 徳) 打安点
 G 小 丸 620
 F天王寺谷 310
 D 三 砂 420
 G 牧 野 400
 C 高 田 200
 A 長 井 301
 H 小 林 300
 H 梶 原 100
 9 森 林 100
 E 笹 栗 400
 @ 滝 井 510
     計 3661

 (兵)6332418
    振球犠盗失残併
 (報)5520206

 ▽三塁打=平川、小丸 ▽二塁打=滝井 ▽2時間34分

〔評〕粘りの報徳。その執念にも似た闘志が、勝利を呼び込んだ。延長十一回二死二、三塁でのピンチに大事を取った敬遠策が裏目に出て、滝井が大賀に押し出しの死球を与え、1−2と一度はどたん場に追い込まれた報徳だったが、その裏先頭三砂の気力のこもった一打が二塁左を強襲した。

 ここで逆に1点を守ろうと堅くなったのが、兵庫の左腕上山だ。報徳は続く牧野が四球、高田がバントで送った一死二、三塁で長井の三塁右への痛打は井上に好捕されたが、この間に三砂がかえって同点とした。

 こうなると、地力で上回る報徳ペース。十二回二死後には小丸が上山の内角低め球を左中間三塁打し、続く天王寺谷の一打は二塁左へのライナー。左打者特有の左に切れる当たりで、これが野手の落球を呼び、幸運ともいえるサヨナラ勝ちした。

 それにしても兵庫の善戦は立派。八回までわずか1安打の貧攻だったが、九回には平川の右線三塁打と田中二の右犠飛でタイとし、十一回には逆にリードを奪う健闘ぶり。上山の報徳を6安打に抑える好投が光っていた。

62陽会(昭和50年卒)
 部長 柳生 茂
 監督 柳生 茂、佐々木豊
 奥山 泰仁    二塁
 柳川瀬伸二    遊撃
 佐伯  良    中堅
 

☆奥山泰仁氏 昭和50年卒、62陽会

 入部時には10数人いた部員も1人抜け、2人抜け、三年生になったときには、佐伯、奥山、柳川瀬の3人だけになってしまい寂しい思いをしました。

 一番の思い出は、やはり神戸高校との定期戦です。一年生のときは惜敗、二年生のときは大敗を喫し、それだけに三年生のとき6−4で勝ったときのうれしさは、人生最高の喜びと言っていいほどでした。

 この年の神戸高校はシード校に選ばれる実力校であり、戦前の予想は神戸高校優勢との見方が大半を占めていました。そんな中での勝利は、前年の大敗もあって、3人の三年生とっては感激の雪辱でした。

 試合後、同級生がグラウンドに降りてきて、3人を次々と胴上げをしてくれて歓びを分かち合ったことは、いまだに忘れられない思い出となっております。これも、、一、二年生の優秀な後輩たちが力を貸してくれたお陰だと感謝しています。


 また、数々の名勝負を生んだ神戸市民球場が、平成7年の阪神大震災により姿を消してしまったため、大切な思い出の一つがなくなってしまい、寂しい思いをしております。全校生徒が応援するなかで行われた神戸高校との定期戦は、野球部員にとって晴れの檜舞台でした。

 「西の早慶戦」とも言われるほど伝統ある一戦に出場して、その輝かしい歴史の1ページに足跡を残すことが出来たことを誇りに思っています。