昭和30年(43陽会)1955年

NO6

☆三瀬正夫氏 昭和31年卒、43陽会

 43陽会を中心としたチームが春の選抜大会に出場できたのは、昭和30年(第27回大会)であった。当時の野球少年にとって甲子園は地元という身近な存在ではあった。
 しかし、戦前から兵庫県は野球レベルが高く、特に昭和27年夏・県芦屋、28年春・洲本と全国優勝が続いており、遥かな夢の世界のような存在でもあった。

 時代は戦後の荒廃からようやく立ち直りはしたものの、神武景気の到来と呼ばれる時代の直前で一般家庭では食べるのが精一杯の生活だった。野球部に入部したとき、親に無理を言って新しいグラブ、スパイク、ユニホームを買ってもらった。

 そのときのグラブは高校3年間は勿論、社会人になってもずっと使い続けた。打撃練習には折れない竹バットの共同使用、練習ボールも不足勝ちで糸の切れたボールを家に持ち帰り、表皮の縫い直しをするのが新入生の日課だった。

 われわれ43陽会は入部当時20人以上を数えたが、最上級生のときには12人になっていた。好投手森滝義巳(立教→国鉄スワローズ)を擁し、秋の県大会に優勝、春の選抜出場を確定的にした。

 甲子園出場の力をつけたのは 練習量であった。数少ない現役部員だけでは無理で、その練習量を作り出して下さったのは監督の真鍋宗次先生(16陽会)と諸先輩のご指導だった。41、42陽会の若いOBを中心に先輩たちが連日グラウンドに駆けつけて共に汗を流してくださった。

 バッティング投手、ノッカー、ベースランニング、筋力トレーニングなど、ひとりひとりの手を取って指導して下さった。甲子園出場の夢を果すことができたのは、それら多くの人たちの手作り野球の成果であったと思う。

 出場記念のモノクロ写真がある。思い出のひとつとして時折眺めることがある。
 そのたびにわれわれを送り出してくれた監督、コーチに先輩の方々、スタンドで応援してくれた後輩の姿が目に浮かんでくる。1回戦を不戦勝で通過、2回戦で対戦した福井県の若狭高に2−3で敗れ、校歌の吹奏が聞けなかった悔しさもあったが、“手作り野球”は今でも心の奥深く焼き付いている。またそれをなによりも誇りと思っている。

(43陽会、昭和31年卒)
 森滝 義巳    投手
 高橋 弘治    捕手
 岡本 征夫    一塁
 三瀬 正夫    二塁
 藤本 周慶    三塁
 鳴川 正人    遊撃
 小橋 晋作    外野
 天野 節夫    外野
 浜西 俊彦    外野
 広沢  猛    投手
 渡部  治    捕手
 石原 真雄    内野

◎43陽会の動静◎=2001年現在=
 森滝 義巳=立教大からプロ野球国鉄(現ヤクルト)スワローズに。
       昭和36年6月20日後楽園球場での中日戦で完全試合達成。青少年野球の
       指導を続ける。
 高橋 弘治=立命大野球部OBとして選手育成に貢献。
 岡本 征夫=関西大卒後広島に。住協建設役員。
 三瀬 正夫=大丸に入社。神戸、大阪の社会人野球で活躍。
 藤本 周慶=龍谷大卒後、野球部の監督を3年務める。元武陽野球部倶楽部の会長。
 鳴川 正人=立教大卒、神戸沿岸荷造(株)社長。母校県兵庫のコーチも。
 小橋 晋作=大丸。神戸市の社会人野球で活躍。ポートピアH企画部。
 天野 節夫=関西大野球部から神戸トヨペット。県下各地の営業所長。
 浜西 俊彦=神戸大から教育界に。平成9年度神戸市、兵庫県小学校会長を務める。
 渡部 治 =県兵庫在学中はマネージャー。現在も同期のまとめ役。
 石原 真雄=名古屋工大卒。大林組に。専務として現役続行中。
 故広沢 猛=職業安定所に長年勤務。平成5年病没。