神戸二中・兵庫高校野球部略史

時の歩みは三重である。未来はためらいつつ近づき、
現在は矢のようにはやく飛び去り、過去は永久に静かに立っている。
= シラー =

 

神戸二中、県兵庫の硬式野球部の〈過去〉は学校内の資料室の書棚に静かに眠っている。

明治41年の学校創立以来多くの先輩たちが 50年、100年後、後輩に読んでもらおうと丹念に書き綴った文章が《武陽》の中にぎっしりと詰っている。とりわけ昭和17年までの記録は他校に例を見ないほど充実した素晴らしいものである。

野球部だけではなく総ての出来事が網羅され文字通り『第二神戸中学の歴史』である。そんな素晴らしい先輩たちの残した資料にどれだけの後輩が目を通したか。こと野球部に関しては殆どの人がその存在すら知らないという。

先輩の期待を完全に裏切っている。野球部の起源とも言うべきここに焦点を合わせ部史の基点とすることにする。諸先輩が未来の野球部のために残した自分たちの足跡を明るみに出し改めて「矢のようにはやく飛び去る現在」を次代につなげて行くのがわれわれ世代の義務ではないだろうか。

 【兵庫県立第二神戸中学校創設】

『兵庫県立第二神戸中学校』の設立が認可されたのは明治39年 7月2日。歴史的背景を見れば日露戦争が終結した翌年であり、1年前の日本海海戦における戦勝ムードの余韻がまだ尾を引いていたころである。

『兵庫県立神戸中学』につづく神戸における県立中学の誕生である。『神戸中学』に『第一』が付き『一中(現:兵庫県立神戸高等学校)』『二中 (現:兵庫県立兵庫高等学校』と呼ばれるようになる。

第二中学の設立事務所が明治40年5月16日一中に置かれ第一中学の校長である鶴崎久米一が校長事務取扱に就く。

そして翌41年4月1、2日第一中学で初の入学試験が行われ志願者 896人の中から308人の合格者が発表された。居住地によって生田川を境に(東)第一中学148人、(西)第二中学160人に分けられた。

4月9日第1回の入学式が行われ、長田村=県兵庫の現在地=の新築校舎で第二中学生160人が希望に胸を膨らませ新しいスタートを切った。

【野球部の誕生】

開校直後から池田多助教諭の指導で運動場で野球をする生徒の姿が見られた。野球部の誕生の前ぶれだ。

5月1日に野球部として活動を始めたとの記録があるが、正式に野球部が発足したのは6月1日となっている。その前に撃剣部(剣道部)がすでに活動を開始していたが、両部はほとんど同じ時機のスタートだった。

野球部産みの親ともいうべき池田多助教諭はその時若冠23歳。しかし野球に対する考え方に一つの信念を持っていた。野球を単なるスポーツと考えず〈人間修練〉の場と位置づけ生徒達を指導したのだ。(池田多助氏については別項で)神戸二中、県兵庫の野球部にはその精神が根底に現在も脈脈として受け継がれているに違いない。

明治43年 12月に発行された《武陽第1号》以来戦争のため昭和16年2月発行号で終わった各号に書き残されている先輩たちの野球に対する信念、情熱は池田野球を継承するものである。

戦時色が濃いかったため軍国主義的な匂いも多少はしないでもないが、野球そのものへの気持ちは現在となんら変わらないものである。なかでも大正7年〈第6回扇港野球大會〉で優勝したとき《武陽 16号》に記されている次の一文は二中、県兵庫野球の眞髄を表したものと言えよう。

『野球の眞髄は手腕と技倆とのみに非ず、
 偉大なる人格と不撓の意氣精神とは亦野球技の必須條件なる事を記憶せよ』
 

部史目次へ  トップへ

.