13陽会   三輪 重雄氏          大正14年神戸二中卒
明治38年7月30日生まれ  平成11年3月10日神戸・阪急六甲の昭病院で

                  間肺炎のため死去、享年93歳 

                    謹んでご冥福をお祈りします。

昭和4年関西学院高商部卒

◎…平成11年1月26日(火)神戸市東灘区住吉本町1−11−9の自宅に土居光夫氏(県兵庫38陽会、昭和30年関西学院経済学部卒)と訪ねた。その43日後に死去されたわけだが、そのときは元気そのもの、驚くばかりの記憶力で貴重な話を聞かせて頂いた。
まず最初に言われたことは『最近耳が遠くなりましてね。足も弱くなり以前のように思うように歩けなくなりました。でも頭はしっかりしていますよ』だった。口を突いて出る言葉はとても90歳を超えているとは思えない〈しっかり〉したもの。とはいえやはり高齢のこと、ちょっとした錯覚も。二中の卒業年を『大正15年』と言っておられたが、念のために同窓会名簿で調べてみると『大正14年の13陽会』だった。

◎…『私が二中で野球をやっていたころ京都の優勝校と神戸の優勝校が対戦して優勝を競う【京神中等學校対抗野球戰】というのがあったんです。大正12年神戸の豫選で優勝して京都代表の立命館中學と対戦したんですが、体格が全然違う。大学の選手並みで威圧感がありましたね。8対2か3で(8−6)で負けました。私は三塁手でしたが、キャッチャーに榎本(久馬太=物故)と言う人がいましたね。
その翌年(大正13年10月)の六高大会(第六高等學校主催近県中等學校優勝野球大会)に〈投手として〉出場、決勝戦で高松商業と対戦、1番・中堅の野村という選手に1回先頭打者ホームランを打たれその1点で負けたことを覚えています。確か高松商業を出たあと慶應に進んだと聞いています』

◎…同じ13陽会だった戸沢一隆元阪神球団社長の話に『幹部候補生のとき大阪の連隊で一緒でした。テニスの選手だったのが、何時の間にか阪神に入って甲子園の球場長になりタイガースの社長になっていた。藤本(定義氏)監督で優勝して一躍野球で有名になったが、今は皆衰えてしまいました。

同窓会で戸沢に会ったとき“なぜタイガースは優勝出来たか?”を始めいろいろ話を聞いたところ彼は「ピッチング(バッチング)マシンーを使って練習をさせたら速いボールが打てるようになりそれが好結果をもたらした」と言うのでそれならいいマシンメーカーを紹介してくれ−ということで東京のメーカーに連絡を取ってくれた。私は自分のポケットマネー(約100万円)を出して二中の野球部に寄付したんです。
そのことを同窓会で話したところ「こんなマシンは邪道や−と言う人がいたんです。戸沢に聞いてわざわざ東京まで行って自分のお金で買い母校に寄付したんだ。売名やないんです。二中を夏の大会に優勝させたいためにタイガースの秘訣を聞きマシンを買ったんです。そんなことを言う人がいるのなら絶交です−と20年以上も同窓会には出席していません』マシンを寄付したことを“邪道”とか“売名”呼ばわりされたことが気にさわるらしくついつい語気が高まる。

『第一回大会以後夏の甲子園に出ていません。なんとかもう一度出てほしいものですね。今の私の夢はそれだけです』自分が果せなかった夢の実現を後輩に託す気持ちは年齢を感じさせない迫力が感じられた。

◎…三輪氏の思い出話は連綿と續く。【我が野球史】一冊の本が出来るほど内容が豊富。全てをまとめて見て頂こうと思っていた矢先の他界だった。三輪氏が二中の野球部時代のことを思い出して〈若き日の血〉をたぎらせて話したのはこのときが最後だったろう。

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