13陽会 戸沢 一隆氏 大正14年神戸二中卒 | ||||||||||||||||||
明治40年(1907)1月、神戸市の楠町で生まれる | ||||||||||||||||||
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少年時代の戸沢はテニスに熱中する。自宅周辺でラケットを振る者が多かったせいだ。戸沢が五年に進級した年、二中にも庭球部ができる。 神戸高商(神戸大)へ入学後も、テニスに明け暮れる生活が続いた。卒業も間近の昭和4年初頭、一枚の求人票が校内掲示板に出た。『庭球経験者を求む−阪神電鉄』甲子園浜に百面コート建設を進めていた阪神は、事業活動に必要な人材をこんな条件つきで探していた。戸沢は受験、その三月、入社が決まった。社員教育で黒い詰めえりを着込み、車掌、運転も体験した。三ノ宮−梅田間、片道四十銭の時代である。 二度の召集期間をのぞき、事業、会計畑で働いていた。十年暮れのある日、本社につめかけた大男たちに目を見張る。タイガース創設にはせ参じた、御園生、景浦、若林ら往年の名選手たちだ。戸沢は、ファン同様の心理であこがれの目をこれらスターに注いだものだった。そのプロ球界の名門『タイガース』の代表になれ、と命じたのは、当時の阪神電鉄社長野田誠三。 =学校人脈、二中・県四〜兵庫高=
戸沢は球団代表、同社長をあわせると在任期間は、ほぼ18年。電鉄からの出向では最長不倒である。 『球団の代表をやってくれ』当時の野田誠三オーナーからの命令である。
戸沢は学生時代テニスに打ちこんでいたスポーツマンであったが、プロ球界は全くの門外漢である。当然戸惑いもあったろう。『とてもその任でない』と固辞したものの、野田オーナーから強引に口説き落とされた。この時期、藤村監督排斥問題が起こり、あたかも燎原の火の如く、選手間に広がっていた。阪神マンの一員として−そのようなバカげたことが、真実に起こるわけがない。頭から否定していた戸沢が代表に就任した初仕事は、激しい渦がまく監督問題の収拾であった。
−監督排斥の空気は、選手個々に濃淡の差こそあれ、たしかにある。しかし、現実よりも新聞の記事がはるかに先行している。 二中の先輩である巨人の宇野庄治氏と代表者会議の席で激論を交わしたこともある。二中OB同士の〈室内巨人−阪神戦〉思わぬ運命のいたずらに二人はどのような気持ちでやりあったであろう。プロ球界を揺るがす多くの事件、問題を解決してきた二人、出来ることなら真相の全てを語ってもらいたかった。明らかにされぬまま時の流れとともに消えて行った数多の“秘密”は永遠に解くことは出来ない。 |
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