7陽会  島田 叡(あきら)氏 従五位勲六等  大正8年神戸二中卒
明治34年12月25日生まれ  昭和20年6月沖縄で死去。

                   

 

                                    謹んでご冥福をお祈りします。

    〔略歴〕
大正 3年 3月 西須磨尋常小学校卒
大正 8年 3月 兵庫県立神戸第二中学校卒(7陽会)
大正 8年 9月 三高文科丙類入学
大正11年 4月 東京帝国大学入学
大正14年 4月 東京帝国大学法学部政治学科卒
大正14年 4月 山梨県属
大正14年11月 高等試験合格
昭和 3年 1月 地方警視
昭和 3年 1月 徳島県保安課長
昭和 4年12月 岡山県保安課長
昭和 6年 1月 三重県警務課長
昭和 7年 1月 長崎県警務課長
昭和 9年11月 福岡県警務課長
  昭和12年 1月 地方事務官、大阪土木部総務課長  
昭和13年 1月 佐賀県書記官補警察部長
昭和20年 1月12日 政府は大阪府内政部長の島田 叡を沖縄県知事に発令
  〈昭和54年神戸新聞出版センター発行『学校人脈、二中、県四、兵庫高』から〉

壕(ごう)の外は、すさまじい“鉄の暴風雨”であった。昼夜の別なく米軍の艦砲射撃、空襲。日増しに激しさを加え、沖縄の地形すら変えようとしていた。
太平洋戦争末期の摩文仁丘。海岸に近い洞穴の前で、沖縄県知事島田 叡(7回、大8卒)=故人=は、天を仰いだ。島田は、最後まで残っていた行政組織「警察警備隊」の解散を命じ、生死をともにすると付き添ってきた二人の属官にも“脱出”を指示した。一緒に死なせてくれという二人を突き放すように壕の外へ出した島田は、洞穴のなかで警察部長ら四人と行政幹部とともに「死」への準備を始めた。外は、熱帯を思わせる六月の太陽が沖縄の緑に照り返っていた。

島田が大阪府の内政部長から、沖縄県知事に任命されたのは昭和20年1月12日。艦載機による猛爆が続き、米軍上陸必至という緊迫した情勢のさ中であった。前任者が務めを“放棄”するような形で本土へ引き揚げたあとの人事だけに、周囲からは大きな同情すら寄せられた。
「死ぬのはわかっている。いっそ辞任したら」という忠告めいた言葉も聞こえてくる。が、島田はきっぱりとこう言った。
「それでは他の人間なら死んでもいいというのか」
頼まれれば断り切れない、人の良さに、人一倍の責任感が加わって、あえて死地に身を投じることになる。
島田のこうした性格は、すでに二中時代からその片鱗を見せていた。野球部に席を置いた島田は、猛者連で結成されたチームを見事に統率していた。ひとクセもふたクセもある部員のなかで、いつの間にかキャプテンに推されていた。いたずら盛りの部員が、どんな“悪事”を働いても、決まって仲間を弁護。時には言われもない叱責を一人でかぶる。こんな“受難者”的振る舞いが、チームメートに厚い信頼感を与えていたからだった。

(中略)

住民とともに絶壁まで追い詰められた島田は“鉄の暴風雨”のなかで、ピストルと青酸カリを用意した。『知事は死ぬ必要はない』−脱出の勧めも、ガンとして拒んだ。その後、島田がどうなったか、だれも知らない。自決したのか、入水したのか。あるいは、爆撃で崩壊した洞穴のなかで圧死したのか−。 20年6月末、激しい沖縄戦のあとその姿が永遠に消えたことだけは確かである。

 

昭和47年12月発行の【武陽通信】の23n〈切抜き帳〉に『私は島田知事の最期を目撃した』東京都の山本さんが名乗り出る。との記事が掲載されていた。

最後の県知事−島田叡(あきら)氏の死は、戦火の中での入水自殺、短銃自殺、あるいは軍とともに玉砕−などといわれ真相は不明とされていたが、テレビ放送がきっかけで『島田知事の最期を目撃した』という元軍人が名乗り出た。東京都三鷹市上運雀 5−29−14鮮魚商、山本初雄さん(51)でもと「球一八八○部隊井村隊山川小隊(独立機関銃隊)の連絡係」の伍長勤務兵長。沖縄戦で右頭を負傷、捕虜生活ののち復員した人。

西日本新聞、二十七日夕刊の伝えるところによると、山本さんは八月十五日夜、フジテレビが「ドキュメンタリー劇場“島田沖縄県知事の死”」を紹介した記事の中に「島田知事は、どうくつ内で一人で短銃自殺したともまた入水自殺したとも伝えられ、その最期を見届けた者はいない」とあったのを読み『そんなバカな…、私は摩文仁近くのどうくつ内で知事の最期を目撃した。こんな大事なことは、とうに分かっているとばかり思っていた』と語っている。

山本さんによる当時の模様は次の通り。
『私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食糧さがしに海岸沿いを糸満方向へ約二百メートル行った。海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて“知事さんがはいっておられますよ”という。奥行き六メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。“知事さんだそうですね”とたずねると“私は島田知事です”と胸から名刺を出した。“負傷しているんですか”ときくと、“足をやられました”といわれた。知事さんが“兵隊ん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。何も食べ物がないときですよ。えらいと思います。二つもらって“元気にいて下さい”といって自分のごうに戻ったのを忘れません。
その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行った。
ところが、先日と同じ地方人が“知事さんはなくなりましたよ”という。ごうにはいるとヒザのそばに短銃があった。右手から落ちたような感じで“ああ自決したんだなあ”と思った。合掌して知事さんのごうを出ました。
知事は白の半そでシャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。髪、ヒゲは大分のびていた』

山本さんは、その後、昭和二十一年初めに投降、その時米軍の前で沖縄県庁の役人らしい男に島田知事の名刺などをいれた雑のうを没収された。仲座にある収容所に一年いて二十二年復員した。

『証拠になるものを没収されたけど間違いない。現地をみれば知事最期のごうもわかる』と山本さんは語っている。(昭和46年9月1日、沖縄タイムス)

島田は、二中、三高を通じて野球部の名選手として鳴らしたが、二中時代は、渡邉大陸(9回、大10卒)と一中から転校してきた有馬大五郎(7回、大8卒)=国立音楽大学長=という超大物バッテリーを率い、チームを県下のトップクラスに引き上げた。

同級生で近衛文磨首相の秘書官を務めた牛場友彦=アラスカパルプ副社長=などは『持って生まれたキャプテンの器』と話している。

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