「新記録の話」  54陽会 勝 順一

(両立できず)

小学校6年から野球を志し、中学校では「野球」と「勉強」を両立させていたので、勉学面ではあまり苦労なく,兵庫高校に入学したと記憶している。高校でも格好よく両立させたかったが、そうはいかず、どちらも中途半端になりそうになり、大いに悩んだ時期があった。今は亡き母親から「自分の人生だから好きな道を選んだらよい」とのアドバイスがあった。これに意を強くし、「野球」を選択し、甲子園を目指すことになるが、学業成績は見る見る落ちていったのは云うまでもない。

生来の左利きであった私は、左利き故にポジションが限られることもあったが、小学校から一貫して「投手」であった。上背もなく、体力的にも特に優れていたわけでもなかったが、コントロールだけは良かった。カーブとストレートのコンビネーションで打たせて取るいわゆる軟投派であった。

高校2年の夏、新チームとなった我々は、県下でもそこそこのチームに成長していたが、まさか甲子園に行けるとは,誰(学校関係者、選手自身)も思っていなかったと思う。

地区大会を勝ち上がり、秋季県大会で2位となって、近畿大会に出場することになるが、周りがざわつき、甲子園を意識し始めたのは、このあたりからである。

(右写真 昭和40年11月 対 PL戦  奈良:橿原球場)

(敗者復活戦)

ここで、甲子園出場に繋がる県大会で2位を獲得した経緯をもう少し詳しく説明しよう。

今大会の優勝候補は、ダントツで報徳であったが、ダークホースの滝川に破れ、姿を消していた。準決勝には、育英、滝川、明石、兵庫の4チームが進み、育英VS滝川、明石VS兵庫の対戦となった。

結果は、育英と明石が勝って決勝戦に進出し、育英が優勝した。

(あれっ!?兵庫は準決勝で負けたのに、何で2位に?)そのカラクリは準決勝から「敗者復活戦方式」が採用されていたためである。それは、準決勝の敗者同士が対戦し、その勝者が、決勝戦の敗者と 2位決定戦を行うという方式である。従って、兵庫は敗者同士で滝川と戦って勝ち、2位決定戦では準決勝で1−4と完敗した明石と再戦、1−0で雪辱を果たし、県大会2位を勝ち取ったのである。 

 

育英

       
         
 

滝川

       
       

優勝
 育英

 

明石

     
         
 

兵庫

       

       

−敗者復活戦−

滝川

       
         
 

兵庫

     

2位
 兵庫

       
 

明石

       
         

記憶が正しければ、この敗者復活戦はこの年だけの採用だったと思う。結果論であるが、兵庫はこの敗者復活戦をラッキーチャンスとしてものにしたが、 通年であれば、2位の明石にとっては、悔やみきれない敗者復活戦であったと云える。 

(大番狂わせ)

近畿大会1回戦の対戦は、大阪の1位校・PL学園であった。後に、阪急ブレーブスの4番打者となる「加藤秀司」を筆頭に、プロ野球に3人入団する選手を擁する大型チームであり、下馬評では「兵庫はまかり間違っても勝つことはないだろう」であったし、それは選手自身も感じていた。そんな心境からか、試合前日、宿舎で翌日の試合のことはそっちのけで、夜遅くまでトランプに興じていたことを昨日のことのように思い出す。

勝てるとは思っていないので、何の気負いもなく、無心で戦い続け、気が付くと1−1で9回裏一死満塁、そこで6番打者がデッドボール。サヨナラデッドボール。その瞬間、何が起こったか分からずに、しばし間が空いたが、すぐに状況が理解でき、全員、歓喜の嵐に包み込まれた。なんとサヨナラ勝ちで大番狂わせを演じてしまったのである。

やってみないと分からないのが、野球である。勝てないと思っていたPL学園に勝ち、勝てそうだと思った高野山(2回戦)に1−3であっさりと負けてしまった。 

 (大敗を喫す)

強豪・PL学園に勝利したことが評価され、昭和41年の 全国選抜野球大会(甲子園)に出場することとなった。この大会には、兵庫高校としては昭和 30年以来、通算4度目の出場である。

初戦の相手は、高知県代表の古豪・高知高校で、まさに黒潮打線であった。我がチームが

先制(1)したが、勝負になったのは5回まで。 6回に逆転され、終盤に大量点を奪われ、1−10の大敗であった。

当時、ご声援・ご支援いただい同級生、同窓生、ご父兄の皆さん方には、誠に遅ればせながらこの場をお借りして、ご期待に添えなかったお詫びと温かいご声援・ご支援に対するお礼を申し上げる次第であります。 

(右上写真  昭和41年全国選抜野球大会 開会式風景)

(記録ホルダー)

この試合で高知高校は、22安打、うち本塁打 3と打ちまくり、この22安打が、大会タイ記録、1試合3本塁打が大会新記録というおまけ付きであった。

私は完投したので、22安打 3ホーマーはすべて私一人で打たれ、新記録が作られたのである。私はめでたく?「ワースト記録ホルダー」となったのである。

記録は破られるためにあると云われるが、この1試合最多本塁打の記録は、後にドカベン香川・牛島のバッテリーを擁した浪商高校が3ホーマーを放ち、タイ記録に並び、その後、清原・桑田のPL学園が6本を放ち、記録を更新し、現在に至っている。

ということで、ワースト記録ホルダーの汚名(名誉)?は解消されたことになるが、抜かれてみると寂しいものである。浪商にしてもPLにしても、金属バットで作った記録であるが、私は木製バットで打たれたのである。「金属バットと木製バットでは飛距離が違う。従って、打たれた値打ちが全然違う。真の記録ホルダーは依然として、私だ」と自分勝手にそう思っている。 

(打たれ強く…)

会社生活も30年を超え、もう 5年もすると定年を迎える年となったが、この甲子園での経験が仕事の上で、役に立つことが多くあった。甲子園に出た、出た、だけでは自慢話となり、聞き手にとっては鼻につくものであるが、「甲子園に出ることは出たが、メチャクチャ打たれ、新記録をつくられました」と話をすると、皆さん興味深く聞いてくれた。社員教育の導入部分(つかみ)であるとか、お客様の接待時にこの「新記録」の話をよくさせてもらった。そして話の「おち」はいつもこうでした。「甲子園でメチャクチャ打たれた結果、私は社会に出て、打たれ強くなりました」と。 

(野球に感謝)

私自身は、野球のお陰でいい人生を送ってこれたと思っている、だから、残された人生においても、何らかの形で野球に関わり、今度は恩返しをしていきたいと思っている。

手始めに、諸先輩方のご指導を仰ぎながら、後輩諸君のご協カを得て、武陽野球倶楽部(神戸二中・兵庫高校野球部OB)のますますの発展に注力していきたいと思います。

以上

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