26陽会   高原希国氏

武陽原頭 空高く聳える ユーカリと、25周年の昭和8年に入学した26陽会の一人です。小学校を姫路の飾磨小学校から神戸の灘小学校に転校、少年野球で神戸市、兵庫県で優勝したメンバーの一員でしたので、入学式当日から馬場野球部長の指示で練習に参加しました。

そのころの二中は低迷期にあって昭和10年の秋には開校以来最低といわれるほどでした。その3年の秋に山名野球部長のもと主将に任じられた私は“強い二中”の復活にナイン全員とともに懸命の努力を続けました。先輩からは叱られ、猛練習に猛練習を重ねた結果、年とともに力が付き始め対外試合も盛んに行うようになりようやくチームに活気が出始めました。昭和11年10月に大阪の扇町商、11月に市岡中、また京都の京都一商、翌12年5月に大阪の興国商と次々強豪校と対戦し着実に元の二中に戻って行きました。

《不世出の大投手》と言われる京都商の沢村栄治投手とも対戦したことがありました。確か彼が1年生のときだと覚えています。また西宮球場の球場開きの試合で甲陽中と顔が会い別当(薫)投手と対峙したことも忘れられない思い出として年老いた今もはっきりと脳裏に焼きついています。あのころのことを思い浮かべると懐かしさと同時に血がたぎって若返ってきます。20年の中断のあと昭和12年に一中との定期戦が神戸市民球場で復活といろんな出来事と遭遇出来たのは幸運といえるでしょう。

しかし、世の中は徐々に暗い方に向かって行きました。年と経つにつれて戦雲は広がり軍国主義へと突き進んで行きました。昭和12年、私の最後の予選は思いもかけない投手の乱調で1回の表に10点を失い1回戦敗退、これが人生の転機となり、海軍甲種飛行予科練習生として海空軍に身を投じ、太平洋戦争の緒戦の主力となりました。海軍に入ってからも野球は続け“名選手”?として活躍、戦後オーストラリアの捕虜になってからも得意の野球で捕虜交換に貢献しました。復員後神戸外大(市神戸外国語大学)に入学してからも野球との縁は続き外専大会で優勝、証券界でも全北浜の選手権監督として、皆の先頭に立ち野球を通じて証券界の発展に尽くしました。《野球道こそ人生のバックボーン》私の座右の銘です。 

※平成12年7月3〜7日の5回にわたって大阪産経新聞の夕刊に『北浜の古武士』高原希国の半生=という航空兵のときの体験記事が掲載されている。それによると乗っていた飛行艇が墜落実家には戦死公報が。昭和17年6月に葬儀を終え立派な戒名までついていたという。捕虜の間《高田一郎》と名乗っていたため日本に安否が伝わらなかったわけだが、しばらく神戸で『高原の幽霊が徘徊している』とうわさが流れた。晩年は北浜で〈最後の相場師是川銀蔵〉と組んでの相場師としての活躍は有名。ここでその全文を紹介することが出来ないのが残念−波乱万丈の人生を送って来た高原希国氏であるが、その間一時も野球のことは頭の中から離れたことはなかった。

                〈編集者記〉  =平成12年11月3日=

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