27陽会   池田精一氏

平成12年9月12日(火)神戸市中央区ジャパンエキスプレス社で。

『私が二中で野球を始めたのは昭和12年で最初の予選は無残な1回戦コールド負けでした。中外商相手にいきなり先発の藤井さんが四球を連発、その上ヒットは打たれる、急遽私がリリーフしたんですが、火に油と言うんですか、私もノーコンで四球を連発してまた藤井さんと交代したんです。1回を終わったら10失点。7回で思いも掛けなかった1−10の敗戦、悔しいやら恥ずかしいやら。翌13年、投手になってやっと自分と二中の野球が出来るようになりました』池田氏は日焼けした顔をほころばしながら二中時代の思い出を話し始める。とても77歳とは思えない頑強な体躯からマウンドでの姿をほうふつさせる。

『別当(薫氏。甲陽中−慶應を経てノンプロ、プロ野球で活躍)と同世代でした。13年2回戦で姫路商をコールドで破り、3回戦で明石中と対戦8−5で勝ったんです。当時の新聞に《明中不覚の敗戦》《輝く神二中の殊勲》と書かれました。下馬評を覆す勝利だったんですね。つづく準決勝で甲陽と顔が会い私と別当の投げ合いになったんです。互角の勝負でしたが、味方打線がシャットアウトに封じられ0−2の惜敗でした』池田氏は知人から送ってもらった当時の新聞記事を大事に保管していると言う。そして気が向けば取り出して60年以上も昔の自分の姿を懐かしく思い浮かべているそうだ。

『甲子園、西宮球場に神戸市民、明石球場を使っていたが、いい球場に恵まれていました。

世間には戦雲が漂っていましたが、なぜか私らには戦時色は感じなかったですね。私を支えてくれたのが1年下のキャッチャー中村君(善也氏、28陽会)でした。練習が終わってからも遅くまで受けてくれました。今から思うと彼のお陰でピッチャーをつづけることが出来たと思います。本当に感謝しています』バッテリーは一体のもの中村捕手あっての池田投手というわけか。

『男ばかりの兄弟4人、長男の芳蔵(昭和4年卒、17陽会)と三男の私が二中に入り、二男と四男は市神港に進み皆野球をしているんです。周囲がこういう事情なので私が二中に入って野球をするようになったのは小学生のころからすでに決まっていたわけです。

ただ敷かれた路線を私が歩いただけなんです。神戸高商まで野球をやり会社に入ってからは軟式でやってきました。終戦後会社(ジャパンエキスプレス)のチームを連れて中国(北京)に行ってきました』会社では軟式野球の発展に貢献、『平成10年度軟式野球スポーツニッポン賞』を受賞している。現在も(平成12年)軟式野球界の重鎮として前記の要職にある。野球とは永遠に縁が切れない池田精一氏である。

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