28陽会  中村善泰氏

大正12年〔1923〕2月生まれの私は広島県福山市の小学校を終えて、昭和10年神戸二中に入学した。両親は私が2才の時、母方の祖母に私を託して渡米したまま不在であった。文字通りの“一人っ子のお婆ちゃん子”で育った私が、当時神戸在住の叔父の家から二中に通うことになった。

小学校時代からゴムマリ野球大好きだったので、無謀にもだれにも相談せず、入学後すぐに野球部に入った。初めて手にするバットの重さ、ボールの硬さにビックリ。後悔したがもう遅い。当時県屈指の速球投手と評判の池田先輩のピッチング練習の相手を務めたが、ボロミットで受ける球、手の痛いこと。みるみるうちに左手はまっ赤にはれ上がり、その痛さに思わず涙がボロボロ、泣きながら捕けたものだ。

こうして一学期、慣れぬ練習に明け暮れて、学業成績は250人中220番前後と低迷、この状態が一年間続いた。これを知って驚いた米国の両親は大慌てで翌11年初夏帰国、即刻退部させられ、物心ついて初めて会った両親と二中近くに家を借り、一緒に住むことになる。こうして毎日勉強の要領をたたき込まれると徐々に意欲も高まり、自然と成績も上向いてきた。半年ほど日本に残っていた両親が一安心と米国に去ると早速、野球部に復帰して卒業まで野球を続けることができた。

昭和15年広島高等学校に入るとまたすぐ野球部に入り、戦前最後のインタ・ハイとなった17年の東京大会で全国優勝を経験することができた。これで野球生活は打ち止め。戦後は東大社会学科を終えて、25年両親の住む米国シャトルに渡り3年。その間州立ワシントン大学で社会心理とマスコミ研究に集中した。本当に徹底的に勉強できたのはこの3年間であった。帰国後は広告会社の『電通』で、初期の商業ラジオ、テレビの渦中で国内、海外と忙しく飛び回りながら、充足感に満ちた生活を送ることができたのは無上の幸いであった。

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