54陽会   武蔵健児氏

1966年、昭和41年春第38回選抜高校野球大会に私たちはエース勝君を軸に守りとミラクルなチームとして出場しました。

昭和39年に県兵庫に入学。同期生は団塊の世代の中心で629人もいました。
私は小学生のころから野球が大好きで中学校も野球部だったので迷わず野球部に入部しました。新入部員は27人でした。しかし、だれも県兵庫が甲子園に出て来るとは思っていなかったはずです。
そのころは兵庫県はレベルが高く私学の報徳、育英、滝川。公立では市神港が甲子園に出場、活躍していました。
連日ハードな練習が続き新入部員は次々と退部して行きました。三年生まで残ったのはマネージャーだった鈴木一郎君〔スペインでギタリストに〕を含め7人になっていました。

昭和40年の県予選2回戦で飾磨工に1−4で敗れて新チームに。秋の県大会地区予選で育英、滝川を抑えて優勝。県大会に出場、北条、葺合、竜野実を破ったあと明石に敗れましたが、敗者復活戦で滝川を倒したあと、2位決定戦で明石に雪辱して近畿大会に出場しました。近畿大会の1回戦で大阪の第1代表PLを接戦の末破って2回戦の高野山に負けたものの選抜に推薦されました。

甲子園では高知高校に1−10で大敗、入場式から6時間後には早々と姿を消しました。勝君の方が本調子であったら−と今も悔いが残ります。あれ以来、県兵庫にとって甲子園は遠いところになってしまいました。何時の日か甲子園球場に母校の校歌が流れるのを祈っています。

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