37陽会  向井隆一氏

平成12年7月19日(水)梅雨明け宣言の直後、それを機に気温は一気に上昇、吹き出る汗はまたたく間に小さなハンカチを湿らせてしまう。そんな日、神戸中央区の会社(中央港運)に向井氏を訪ねた。当然のように最も印象に残っている試合から話は始まる。

『選抜?いやそうではないんです。昭和23年、県予選の決勝戦で芦屋に負けた試合なんです。戦前の下馬評は二中の方が有利だったんです。表彰式では誰が優勝旗を持つとか分担まで決めていて試合前からすっかり優勝気分でした。なにしろ夏の優勝は第1回大会、大正4年以来ですからね、私と有本君(慶応=スポーツニッポン=ダイエー=野球評論家)の投げ合いで4回まで 0−0。5回、私が打たれて2点を先に取られたんですが、6回に相手の失策から3点を入れて逆転、あと3イニング…。と全選手栄冠目指してさらに闘志を燃やしたんですが8回守備に乱れが出て致命的な3点を失って千載一遇のチャンスを逃してしまったのです。優勝がプレッシャーとなっていたんでしょう』とあと一歩のところで念願の【優勝】を逃した悔しさを話す。半世紀経ってもこの敗戦は脳裏からは消えない。夏が来て予選の季節になるたびに向井氏は目前にしてするりと逃げて行った夏の甲子園を思い出すと言う。『新チームになった秋の県大会の準決勝で芦屋と対戦、有本君相手に4−0で雪辱しましたが…』

『その年(昭和23年)の選抜に出ていますが、1回戦で荒川さん(元巨人=王貞治氏の師匠)が投手の早実と対戦し2−1で勝ったんですが、この試合は河野さんが投げて私はキャッチャーでした。当時、河野さんと私は試合によってバッテリーが入れ替わることがよくありました。そして2回戦の相手は大阪の代表北野中学でした。大阪と神戸の顔合わせとあってスタンドは満員。大変な応援ぶりで選手間の話声が聞こえないんです。騒がしいといったようなものではありませんでした。この試合も逆転、再逆転の末後半に決勝点を取られて1点差負け。勝ち試合も1、2点差のクロスゲームが多かったのですが。それだけに負け試合の悔しさは強く印象に残っています。

翌24年も連続して選抜に出たんですがそのときも1点差での負けでした。1回戦で桐蔭に2−3、相手の西村投手はのちに阪神に行ったのですが。速い球を投げていましたね。三振を18取られとても打てる気がしませんでした。それでも3−0とリードされた9回の裏2点を挽回して二死満塁、一打逆転サヨナラの場面、しかし、三塁走者の半田君がホームスチィールを企ててきわどいタイミングでしたが、打者の藤池が見送りの三振、瞬間ゲームセット。内容的にはともかく惜しい試合でした』向井氏の輝かしい球歴には悔いが残る“忘れられない試合”が多くあるが、なかでも『わけの分らないうちに負けた』のが最後の予選となった昭和24年の3回戦、対市姫路戦である。

7月25日、その試合は明石球場で行われた。向井―堀川両投手の好投で7回を終わって2−2のタイ。試合内容は安打数で圧倒的に優る市姫路が押していた。8回裏県兵庫が1点をリード、9回表を抑えればベスト16進出だ。

その直後夢想だにしなかった大波乱が起こったのだ。『満塁だったか、ともかく塁上は走者で埋まっていました。次打者の打球はピッチャーフライ、その瞬間なぜか平衡感覚をなくしてしまったんです。平凡なフライを落球“シマッタ”と思ったときには何人もの走者がホームベースを駆け抜けていました。気がつけばスコアボードに“5”が。有終の美を飾れなかったばかりか物の怪に取りつかれたような敗戦、本当に後味の悪い負けでした。もう少しいい形で高校での野球生活を終えたかったのですがね』悪魔に魅入られたとしか思えないようなエラーで向井氏の神戸二中―県兵庫の野球生活は終わった。

『終戦直後、野球用具の調達のため苦労したこと、バット、グローブの修理、底が釘まみれのスパイク、あらん限りの知識を駆使して用具の寿命を延ばして使用した思い出、恵まれた環境の今では想像もつかない苦しさは勝敗以上深く脳裏に刻み込まれています』苦労話も尽きない向井氏である。

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