37陽会  田中教仁氏

私が神戸二中(旧制)の野球試合を観戦したのは、小学校の五年生で、昭和17年の5月ころだったと思います。神戸市民球場の神戸一中との定期戦でした。スタンドがカーキー色の制服一色で埋まり(一中、二中とも制服はカーキー色)全校生徒の応援合戦でスタンドは物凄い熱気に溢れ子供ながら興奮したことを今もはっきり覚えています。

小出投手(昭和18年神戸二中卒、31陽会)の好投で延長戦の末二中が勝利を収めたことが走馬灯のように頭の中を駆け巡ります。太平洋戦争が終わった昭和20年、私は二中の二年生でした。好きな野球が 出来るようになり、向井君、清瀬君、大西君らとゴムマリで気持ちをまぎらせながら野球を楽しんでいました。最上級生だった坂本さん、宮本さん、芝田さんらが野球部の復活を計画されていて、私たちは全員参加させてもらうことになりました。海軍兵学校から学校に戻ってこられた小谷さん、尾崎さんら元気のいい先輩に連日『二中精神注入棒』と命名されたバットでしぼられました。とりわけ小谷さんは『さあーいくぞ!』軍隊調そのもの、一球、一球力一杯打ち込んでこられた(時には空振りも)ことが今となっては懐かしく思い出されます。

11月の復活戦の相手は灘中学でした。二塁主として出場しましたが、相手の二塁主が三好一彦氏(神戸大学硬式野球部主将、のちに阪神タイガースの球団社長)でした。
現在(平成13年)も経済人野球などでお世話になり、ご交誼を頂いています。この試合、両校投手、四死球連発の結果11−8で辛勝したことを記憶しています。終戦の翌年、昭和21年夏の大会(全国野球選手権大会)が5年ぶりに復活、神戸高商(当時垂水にあり、現在の神戸商科大学)で合宿練習を行うことになり、近くの私の自宅なども開放しました。庭先の藤棚の下で、先輩から“渇”を入れられたことが苦い思い出として残っています。

その後、年とともにチームは順調に成長して行き昭和23年、24年と連続して選抜に選ばれるという栄誉に恵まれ、37,38回の人達とともに甲子園でプレー出来たことは高校時代のなによりも貴重な体験でした。卒業して神戸商大に進みましたが、二年上級の坂本さん、見持さん、宮崎さん、秋山さん、また同期の家城君、鎌田君、一年下の谷中君ら多くの同級生に囲まれて楽しく、愉快な大学生活を送ることが出来ました。

最後に私事で恐縮ですが、愚息が東京大学の野球部のお世話になり、卒業後官庁への就職の相談を受けた際、神戸二中の大先輩であり東京大学の名選手で、戦争末期最後の沖縄県知事を勤められた島田叡さんが進まれた自治省に行くように強く薦めました。

田中氏は70歳を迎えても野球とのつながりは続いているという。近畿の企業の社長、役員で作っている【関西経済人野球チーム】で今でも第一線で頑張っている。このチームの総監督は高校野球連盟会長の牧野直隆氏。毎年秋に関東経済人チームと東西交流試合を行っているが、牧野投手の登板もあり、ときには田中氏がマスクをかむって女房役を務めるというから文句なしに“日本一高齢バッテリー”であろう。いつまで続くか田中氏のユニホーム姿。《200歳バッテリー》もあながち夢ではないかも。どこまで挑戦出来るか、楽しみにしておこう。

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