37陽会 藤池 勍氏  【物故】謹んでご冥福をお祈りします。

昭和19年、第二次世界大戦真只中の二中入学であった。

敵国のスポーツ、野球などとてもやれる状態ではなかった。『欲しがりません勝つまでは』を合言葉に、勉学に、軍事教練に励んだ。すべての物が払底、なにもないのでフンドシ1丁でやれる相撲部に入り体を鍛えた。

小学校では校庭での野球は禁止だった。ガラスが割れるからだ。また子供のころは道路で軟式のテニスボールで三角ベースの野球をしたものだ。楽しい思い出だ。

終戦の翌年、昭和21年に疎開先から神戸に帰ってきたのを機会に硬式野球部に入った。筒井監督だった。ルールを始めセオリー、マナーそして楽しさ、野球に関するすべてを教わった。むさぼるように知識を吸収していった。

軍隊から帰ってきた先輩に、よく気合を入れられた。しぼられた苦しみは今となれば懐かしい思い出としてはっきり脳裏に焼きついている。バックネットがないので校舎の壁が代わりを務めた。当たったボールの行方は定まらない。跳ね返ったボールが湊川に飛び込んで、ブカブカ流れ出す。入部したころは素足で右往左往、そのボールを追いかけたものだ。何度も水浴をしたボールはふやけてソフトボールのように膨張していた。

糸目が切れたボールは家に持って帰り縫ってくる。そして翌日の練習に使う。貴重品のボール、皮が擦り切れるまで何度も何度も縫って使った。

用具で潤沢なものは何もない。バットもない。全部折れてしまいバッティング練習が出来ない事も屡々あった。折れ難いように―と太くて重い300匁もあるのをさらに短く持って打っていた。

用具についてこんなエピソードも。 

当時滝川中学も強かった。バットがなくて練習が出来なくなったとき偵察に来ていた滝川中のマネージャーが『交通費は出す。バット、ボールは滝川で持つから練習試合をして欲しい』と言ってきた。そこで滝川中のグラウンドで試合をして勝ったが、翌日筒井監督に大目玉を食った。選抜の選考前の大切なときだったこともあったのだろう。

昭和23年に選抜出場が決まり、先輩たちからの寄付が集まり念願のバックネットが出来、やっと素晴らしいバットを使って思う存分野球に打ち込めるようになった。

バッティングに自信が持て始めるとともに、一段と野球が楽しくなってきた。

選抜に出場した23年の秋に前年まで二中の教頭先生だった福井県立武生高校水上校長先生の招待で遠征して勝ったこと、食糧難の時代でお米持参で遠征したこと、50年経った今も走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

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