37陽会  大西清氏

私たちのころのチームは強力打線で相手を圧倒するのではなく数少ないチャンスを確実にものにして挙げた得点を守りに守って勝利に結びつけるというタイプでした。だから守備には全員が自信を持っていました。

『練習では自分が一番下手だと思え。試合では自分が一番上手だと思って自信を持って臨め』という筒井監督の指導を忠実に実行していました。また『どこの学校も戦力的には大きな差はない。要は頭の使いようだ。頭を使って野球をするチームが強いのだ。頭を使うか、漠然と試合をしているかの違いが勝敗を分ける』とも教えられました。雨天のためグラウンドで練習が出来ない時は教室でルールとセオリーを徹底的に叩き込まれました。そのお陰でケースバイケース試合のなかで野球の流れが理解できるようになりました。

私は三番を打っていましたが、イニング、得点、相手投手の調子を考え次はバントか強攻か−ベンチからの監督のサインを見る前に予知することができました。当時の選手全員が監督の采配を先々読んでいたと思います。ベンチと選手の気持ちが完全に一致していました。チーム全体が一丸になった−とはこのような状態を言うのでしょう。

『投手力が弱い』と言われたことがありました。しかし、投手力が弱くて“守りのチーム”が成り立つわけがありません。卒業後しばらくして青木さん(清氏。関学−立教大−近鉄球団、捕手。立教大卒業後県兵庫高のコーチを務める)にお会いしたとき『われわれは向井のシュートを力のないボールと思っていたが、今考えるとあれはまさしく“落ちる球”だった』と言っておられたが、ドロップ以外縦の変化球のことはあまり聞かなかったころなので“秘球”と言える球種だったでしょう。そう言えばバットの芯を外した当たり損ねのゴロ特に三塁へのゴロが多かったです。

私は卒業後早稲田大学第一政経学部に進んだのですが、健康診断で“肺浸潤”と宣告され一年間の休部を命じられました。ベンチ入り決定と同時だっただけに大変なショックでした。私の胸部レントゲン写真を見た医師は、石灰化した大きな痕跡に驚きますが、発病した記憶は全くありません。残念な出来事でした。

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