39陽会 片岡節次郎氏 平成8年6月12日死去(享年63歳)

    豪放磊落(ごうほうらいらく)−の言葉がぴったりの片岡氏だが、その裏には想像出来ない精細な神経も持ち合わせていた。意識して強がっていた面も。それが毀誉褒貶の因になっていたようだ。

   彼の指導を受けた後輩たちは誰もが口をそろえて「怖かった」と言う。厳しい練習は時にはシゴキを思わせるものがあった。しかし、自分が成しえなかった甲子園への道を少しでも近づけようという気持ちが厳しさになったのだろう。

    ともかく彼の人生は破天荒そのものだった、昭和27年に卒業、早稲田大学に入学したというニュースが耳に入ったと思ったら〈巨人入団〉しばらくすると野球の神様川上哲司氏と衝突。怖いもの知らずの彼は人にへつらうということは出来ない人間だった。だから相手が神様であろうと自分の考えと違えば向かって行く。そして自分の立場を悪くする−結果がどうなろうとただ自分の意思を突き進める。ある面では羨ましい性格の持ち主であった。

 折角神戸二中の先輩宇野庄治代表の努力であこがれの巨人に入りながら国鉄スワローズに移籍することに。足に故障が発生。プロで野球を続けられなくなり国鉄を退団、サラリーマンに転身。結婚して男二人の子供をもうけたが夫人は死去、箍(たが)がはずれ奔放さは度を増した感があった。

    三ノ宮で〔武陽〕というスナックを開いたが、体調を崩して閉店。趣味のアメリカ映画のポスターを扱う会社を作ったが、摂生という言葉を知らない彼の生活は死への道を突っ走らせることに。平成7年に手術を受け『年内はもたない』と言われていたが、驚異的な回復を見せ翌年GS神戸によくオリックスの試合を見に行っていた。

  しかし、平成8年4月2日、巨人の後輩でありファンであったダイエーの王監督と会う約束をした日に最後の強制入院。当日の朝『あかん、また入院や。一日延ばしてくれいうたんやがダメや』の電話。これが彼との最後の会話になった。無念のキャンセル、王監督との対面はならなかった。

そのことを王監督に伝えると即座に色紙を書いてくれた。それが彼の手に届いた時はすでに息を引き取ったあとだった。そのまま霊前に飾られた。

『ワンちゃんに会いたかったなあ。楽しみにしていたのに。残念や。がんばれと言うといて』夢のなかに出てきた“カタキン”は王監督と話せなかったことを悔しがっていた。天国か地獄どちらにいったかわからないが、地獄の鬼とは喧嘩したらあかん。静かに寝ておれ。カタキン。

  野瀬芳雄氏[村野工・関学OB](記)

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