46陽会  山本幸平氏

野球部に入部した我々は、硬式と軟式の違いに戸惑いながら日々の練習に取り組んでいましたが、ある日突然入部テストが実施されました。それは、上級生がピッチャーマウンドを中心に半円に並び、新入部員は一人ずつホームベースに立ち、古ぼけたグラブを渡され上級生全員がマウンドから力いっぱい投げるボールを落とさずにキャッチすることでした。

なかには何度もボールを落とし手が腫れ上がり泣き出す者、耐え切れずに入部を断念する者も出ましたが、それを乗り越えた13人が晴れて入部を許されました。上級生との体力,技術の違いを感じながら練習に取り組み、瞬く間に新チームを結成することになりました。上級生部員が4人と少なかったので、全員がユニホームをもらい、興奮しながら背番号をつけてもらいました

二年生になり上級生はいましたが、いよいよ我々の時代の到来です。しかし、気持ちとは裏腹に昭和32年の春季県大会は鳴尾に0−1で2回戦で敗退しましたが、チーム力は着実に伸び兵庫県大会では準々決勝で県工の新山投手が打てず0−1で惜敗(県兵庫のバッテリーは太田−高橋)しました。

32年の夏、強い日差しの中、長野主将を中心とした新チームの練習は、真鍋監督を始めとし、関係者の期待をひしひしと感じながらスタートしました。

連日のように日暮れ近くになると必ず先輩が指導に来られ、しごかれて顔を見ただけで逃げ出したくなったのは私だけではないでしょう。

順調にチームは仕上がり、秋季県大会では、2回戦、須磨高に3−2、3回戦、洲本高に4−0と勝ち進み準決勝戦で県芦屋と対戦−ところが運悪くというべきでしょうか、頼みのエース太田が指を傷め、そのうえ剛球・藤投手を打てず2−9で悔しい敗戦を喫しました。

33年は三年生。最後の年です。春季県大会は2回戦で敗れ、背水の陣で臨んだ兵庫県大会は2回戦、明石南に817回コールドゲーム勝ち、3回戦、夢野台20と勝ち進みましたが、4回戦の姫路南は井上−太田両投手の力投で9回を終わって1−1。延長にはいってからは両チーム0を重ね17回に。ついに太田投手が打たれサヨナラ負け。

私たちの高校野球最後の試合は4時間に及ぶ大熱戦で幕を閉じたのです。相手の姫路南が優勝しただけに悔しさは人一倍でした。

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