68陽会 村田賢泰氏

   私たちが最上級生としてチームを発足させたのは昭和54年7月28日でした。当時、チームを作ることへの意欲に満ちあふれていたことと、一年先輩たちが夏の県予選で20年ぶりの[ベスト8]進出した直後ということで妙な気負い(プレッシャーのようなもの)を感じていた記憶があります。

  新チーム結成後は例年に違わず上月先生のもと厳しい練習を積み重ねたのですが、私たちにとってそれからの一年間は実は空回りの連続でした。[主将、四番、エース]と言われながら、春の神戸高校との定期戦では負傷のため出場できず、さらに1年間の集大成と言うべき夏の予選では、1回戦の豊岡戦で右足肉離れ、2回戦は代打出場だけで、ほとんどチームに貢献できませんでした。 当時のチームメートには迷惑をかけましたが、それもこれも今となってはいい思い出となっているのは私だけではない、と勝手に思っています。

  神戸高校との定期戦では連勝記録を延ばしたものの、雨天順延で試合は兵庫高校のグラウンドでやったこと。(やはり定期戦は市民球場に限る)センバツベスト8の強豪尼崎北と練習試合をやったこと。(私はダブルヘッダーの2試合とも投げ切った)県予選の取材で「ローレン」(廊練)が紹介され、だれが写真の前に出るかでもめたこと。

  ライト側に防球ネットが出来た。(お金は出してないが、あれは自分たちの時代に出来たもの)など数々の思い出。

  そして私たちの野球部での活動は昭和55年7月21日加古川西に1−4で敗れて終わりました。

  社会に出て[伝統][リーダーシップ][勝負に勝ち続けること]の大切さを痛感し、野球部時代に培った精神と失敗した経験と反省をバネに現在を生きています。

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