昭和16年(29陽会)1941年

NO1

〈神戸新聞〉
[第9回縣下中等學校野球大會 兼 二府四縣中等學校野球大会兵庫豫選]

 昭和16年4月2日(水)甲子園
 開始午後4時40分=閉戰6時25分 審判・谷山、森口
▽1回戰
 明石中學 000 000 000 2=2
 神戸二中 000 000 000 0=0

 (延長10回)

 〔明 石〕 打安失    〔二 中〕打安失
 8 神 吉 300   7  構  410
 6 奥 村 500   6 本 城 301
 2 倉 内 310   1 柳 田 302
 1 山 田 200   3 竹 中 320
 5 大 黒 520   8 三 谷 300
 3 久留島 300   4 前 田 401
 9 宮 本 301   5 松 本 201
 4 出 口 512   H 上 山 100
 7 槌 谷 400   2 川 戸 301
             H 葛 目 100
             9 岩 崎 400
     計 3343       計 3136

(明石)1181018
    犠盗振球残
(二中)11446
 △捕逸=倉内△併殺=(柳田、本城、竹中)(構、川戸)

☆接戰十合、二中の失策で 明中危く勝つ☆
〔戰の跡〕明中決勝の2點は10回倉内、山田四球、大黒の右安打後逸を中繼ぎした投手が三塁へ走る倉内を刺さんとして暴投して二者の生還を許したもので、それまで兩投手の力投は緊張の投手戰を演じ三壘を踏んだ者各一人、きびきびした快試合は夕暗の空に一入感銘を残した。失策に敗れたのは二中としては氣の毒だが、こゝまで戰へば文句はない。遊撃竹中の好守が目をひいた。

〈神戸新聞〉
[兵庫中等野球]
 昭和16年7月26日(土)甲子園
 育英商業 000 010 000=1
 神戸二中 000 002 00A=2


 〔育 英〕     〔二 中〕
 4 山 下 28打26 6 本 城
 7 鈴 木 4安2 8 竹 中
 6 寸 田 2犠1 3 三 谷
 3 行 部 0盗0 1 柳 田
 8 關 元 6振5 9 岩 崎
 2 瀧 川 8球3 7  構 
 5 花 木 1失3 2 葛 目
 9 岸 本 10残4 4 木 村
 9 龜 山     5 松 本
 1 菅 原

 △捕逸=葛目

〔後記〕兩軍とも速球一本槍の双方投手に手が出ず貧打戰に終始した。四回まで無安打の育英は五回二死後菅原二越安打に遊撃失に出た瀧川を迎へて一點を先取したが、六回菅原投手俄に亂れて3四球を連發した上に三壘手の痛い失策が加って無安打にして二中に二點を與へた。
 二中はこの回以外全く得點機はなく、敵守備陣の自滅で勝星を得たあたり幸運といふべきだ。
 

☆三谷元一郎氏
  昭和17年神戸二中卒 30陽会
  旧制高知高校京都大学野球部

 野球部に入ったのは二年生のころ(昭和14,15年)当時校舎の建て替えが決まっていたが、校庭を横断する段差5〜6メートル、6,7段の石段があり野球部の練習は下段の広い方の校庭を使って行われた。

 四年生の時後者の工事が始まったため校庭は使用不能になり、近くの会下山に会った葬場焼場に隣接するグラウンドで練習をしていた。焼場が稼働し煙突から黒い煙が出始めると黒い灰が舞い下りてくる。加えて死者を焼く何ともいえぬ異臭が立ち込め辟易したものだ。そのせいではないだろうが練習は厳しくなかった。

 それでも実力は県下でベスト8に入っていたと思う。そのころの滝川中は別所、青田、小林といずれものちにプロ野球に入った素晴らしい選手をそろえ県下はもちろん全国的にも有名校だった。確か試合は滝川中の校庭で行われ敗れたが、さすがに青田は良く打っていた。二塁ベース上で私に向かって“アカンベー”をしたことを覚えている。
 中学、(旧)高校、大学、社会人と70歳前までプレーを楽しみ野球とは切っても切れない人生であった。

30陽会(昭和17年卒)
 竹中 康雄    二塁
 三谷元一郎    三塁
 柳田 創三    投手
 川戸 利文    捕手
 前田 正夫    三塁