☆宇野庄司氏 大正11年卒 10陽会
明治36年(1903)8月3日、兵庫県生まれ
神戸二中−三高−京都大法科卒、 |
昭和5年読売新聞入社。中学、高校時代は野球。高校、大学時代はラグビ
ー選手として活躍。
昭和7年運動部員、16年体育部長、20年運動部長、23年読売興業野球部次
長を兼務、25年読売巨人軍専務取締役、球団代表、26年読売巨人軍を合併
した読売興業常務取締役。その間24年アメリカ球界視察。SFシリーズの
来日を紹介。28年第3回巨人軍渡米に同行。32年秋には長島(立教)難波
(関大)を33年秋には王(早実)らを獲得。巨人軍黄金時代の基礎を築い
た。
◇代表在職期間
昭和26年11月30日〜28年11月30日
昭和32年11月30日〜35年12月30日
=東京読売巨人軍五十年史より=
日本を代表するプロ野球チーム、巨人と阪神。プロ野球が発足して以来ファンの人気を二分している。そして〈伝統の一戦〉としてチームの強弱には関係なくファンの血を沸き立たせている。神戸二中野球部のOBが両球団それぞれのトップになり球団の指揮を執っている。
巨人の代表=宇野庄治(司)氏、大正11年卒、10陽会
阪神の代表、球団社長=戸沢一隆氏、大正14年卒、13陽会である。
このような例はあまりないのではないか。
☆戸沢一隆氏 大正14年卒 13陽会
明治40年(1907)1月、神戸市の楠町で生まれる。
兵庫県出身、神戸二中を卒業後神戸高商(現神戸大)に。
昭和4年
阪神電鉄入社。東京出張所長。
昭和31年
11月阪神タイガース球団代表。
昭和35年
球団社長。
昭和49年
10月退任。 |
少年時代の戸沢はテニスに熱中する。自宅周辺でラケットを振る者が多かった
せいだ。戸沢が五年に進級した年、二中にも庭球部ができる。同期の黒田巌=
県議、加古川市加古川町=、稲垣哲也=医師、東灘区御影町=、柴田圭三=
岡山理大教授=らと汗を流して過ごした。
神戸高商(神戸大)へ入学後も、テニスに明け暮れる生活が続いた。卒業も
間近の昭和4年初頭、一枚の求人票が行内の掲示板に出た。
『庭球経験者を求む−阪神電鉄』甲子園浜に百面コート建設を進めていた阪神
は、事業活動に必要な人材をこんな条件付きで探していた。
戸沢は受験、その三月、入社が決まった。社員教育で黒い詰めえりを着込み、
車掌、運転も体験した。三宮−梅田間、片道四〇銭の時代である。
二度の招集機関をのぞき、事業、会計畑で働いていた。十年暮れのある日、
本社に詰めかけた大男たちに目を見張る。タイガース創設にはせ参じた、
御園生、景浦、若林ら往年の名選手たちだ。
戸沢は、ファン同様の心理であこがれの目をこれらスターに注いだものだっ
た。
そのプロ球界の名門『タイガース』の代表になれ、と命じたのは、当時の阪神
電鉄社長野田誠三。
=学校人脈、二中・県四〜兵庫高=
戸沢一隆氏を語るには阪神タイガースでの業績が中心になることは言うまでもない。【阪神タイガース球団史】のなかで〈歴史を刻んだ人々〉の一人として記されているのを転載させて頂いた。
☆代表、社長で最長不倒の18年☆ 戸沢 一隆(とざわ かずたか)
戸沢は球団代表、同社長をあわせると在任期間は、ほぼ18年。電鉄からの
出向では最長不倒である。
東京出張所長であった戸沢は、昭和31年の秋、所用で電鉄を訪れた。人生の
後半がガラリとかわるのは、このときである。
『球団の代表をやってくれ』当時の野田誠三オーナーからの命令である。
戸沢は学生時代テニスに打ちこんでいたスポーツマンであったが、プロ球界
は全くの門外漢である。当然戸惑いもあったろう。『とてもその任でない』と
固辞したものの、野田オーナーから強引に口説き落とされた。
この時期、藤村監督排斥問題が起こり、あたかも燎原の火の如く、選手間に
広がっていた。阪神マンの一員として−そのようなバカげたことが、真実に
起こるわけがない。
頭から否定していた戸沢が代表に就任した初仕事は、激しい渦がまく監督
問題の収拾であった。
選手の一人ひとりと対話をし、戸沢は手応えを感じた。
−監督排斥の空気は、選手個々に濃淡の差こそあれ、たしかにある。しかし、
現実よりも新聞の記事がはるかに先行している。
生来の頑固者が、この当時、報道陣には、かたくなに口を閉ざした。
『戸沢代表は、目の前に雷が落ちても、口を開かないだろう−』
報道陣の間で、このようなささやき声が聞かれたのもこの頃である。
年の瀬も押しつまった十二月三十日、藤村監督の留任で円満に解決した。
当時を振りかえって、戸沢は次のように語っている。
『世間を騒がせて、まことに申しわけない。阪神球団の歴史にも、避けて
通れない一ページを残した。一方、グラウンドで、元の姿に戻ったチームの
姿に接し、ホッとした。感無量だったね』
平常は、沈着冷静な戸沢が三十七年につづき、三十九年にリーグ優勝した
ときは、周囲の目もかまわず、藤本監督と抱きあい感涙にむせんだのである。
以後、未知の球界に興味を抱き、遠征もすべて選手たちと行動をともにした。
『当時は1年、1年がとても短く感じられた。楽しかったよ』
三十八年、球団初の海外キャンプ(米フロリダ)には団長として現地に
赴いた。
話は前後するが、藤村問題のあと三十三年のオフ、田宮がA級十年選手の
権利を行使し、大毎入りした。戸沢は、当時の模様を淡々とした表情で語って
いる。
『田宮自身もプライドもあったろうし、彼の相談役の意見も十分に耳を傾け
たと思う。当時いわれていたような金銭問題がすべてではない』
ドラフト制が実行されるようになり、戸沢は毎年、クジをひく役であった。
藤田平、江夏、田渕、上田二、山本和ら将来、球団で素晴らしい実績を残し
た選手たちを射止めている。
いつしか「クジ運に強い阪神」「強運の持ち主、戸沢」さらに「黄金の腕を
持つ戸沢」とまでいわれた。
ギャンブルに無縁の戸沢も、ちょっぴり縁起をかついでいた。
ドラフト会議の前夜、すべての打ちあわせが終わったあとホテルで、まんじり
ともせず待機、やがて、時計の針が午前零時を過ぎると『さあ、出かけよう』
と戸沢は、スカウトたちを誘って、ホンのちょっぴりアルコールでノドをうる
おし、すぐさまホテルへUターン。「黄金の腕を持つ男」と、いわれた戸沢の
秘訣?であろうか。
=平成3年発刊 阪神タイガース球団史=
|
戸沢は、球団を去ったあと、関西地方のゴルフカントリーの理事として、かく
しゃくたるものである。
『開幕日が四月の第2週目の金曜日からになったらね…』
戸沢の淡い希望であった。高校野球大会に関係なく本拠地で開幕ゲームを迎え
られるからである。
二中の先輩である巨人の宇野庄治氏と代表者会議の席で議論を交わしたことも
ある。二中OB同士の<室内巨人−阪神戦>思わぬ運命のいたずらに二人はどの
ような気持ちでやりあったであろう。プロ球界を揺るがす多くの事件、問題を
解決してきた二人、出来ることなら真相の全てを語ってもらいたかった。
明らかにされぬまま時の流れとともに消えていった数多の“秘密”は永遠に解
くことは出来ない。
☆三輪重雄氏 大正14年神戸二中卒、13陽会
明治38年7月30日生まれ
昭和4年関西学院高商部卒
平成11年3月10日、神戸・阪急六甲の昭生病院で間質性肺炎のた
め死去、享年93歳 |
◎…平成11年1月26日(火)神戸市東灘区住吉本町1−11−9の自宅に
土居光夫氏(県兵庫38陽会、昭和30年関西学院経済学部卒)と訪ねた。
その43日後に死去されたわけだが、そのときは元気そのもの、驚くばかりの
記憶力で貴重な話を聞かせて頂いた。まず最初に言われたことは『最近耳が遠く
なりましてね。足も弱くなり以前のように思うように歩けなくなりました。
でも頭はしっかりしていますよ』だった。口を突いて出る言葉はとても90歳を
超えているとは思えない〈しっかり〉したもの。とはいえやはり高齢のこと、
ちょっとした錯覚も。二中の卒業年を『大正15年』と言っておられたが、
念のために同窓会名簿で調べてみると『大正14年の13陽会』だった。
◎…『私が二中で野球をやっていたころ京都の優勝校と神戸の優勝校が対戦して
優勝を競う【京神中等學校対抗野球戰】というのがあったんです。
大正12年神戸の豫選で優勝して京都代表の立命館中學と対戦したんですが、
体格が全然違う。大学の選手並みで威圧感がありましたね。
8対2か3で(8−6)で負けました。私は三塁手でしたが、キャッチャーに
榎本(久馬太=物故)と言う人がいましたね。その翌年(大正13年10月)の
六高大会(第六高等學校主催近県中等學校優勝野球大会)に〈投手として〉
出場、決勝戦で高松商業と対戦、1番・中堅の野村という選手に1回先頭打者
ホームランを打たれその1点で負けたことを覚えています。
確か高松商業を出たあと慶應に進んだと聞いています』
◎…同じ13陽会だった戸沢一隆元阪神球団社長の話に『幹部候補生のとき大阪
の連隊で一緒でした。テニスの選手だったのが、何時の間にか阪神に入って
甲子園の球場長になりタイガースの社長になっていた。藤本(定義氏)監督で
優勝して一躍野球で有名になったが、今は皆衰えてしまいました。
同窓会で戸沢に会ったとき“なぜタイガースは優勝出来たか?”を始めいろいろ
話を聞いたところ彼は「ピッチング(バッチング)マシンーを使って練習をさせ
たら速いボールが打てるようになりそれが好結果をもたらした」と言うので
それならいいマシンメーカーを紹介してくれ−ということで東京のメーカーに
連絡を取ってくれた。私は自分のポケットマネー(約100万円)を出して二中の
野球部に寄付したんです。
そのことを同窓会で話したところ「こんなマシンは邪道や−と言う人がいたん
です。戸沢に聞いてわざわざ東京まで行って自分のお金で買い母校に寄付した
んだ。売名やないんです。二中を夏の大会に優勝させたいためにタイガースの
秘訣を聞きマシンを買ったんです。
そんなことを言う人がいるのなら絶交です−と20年以上も同窓会には出席して
いません』マシンを寄付したことを“邪道”とか“売名”呼ばわりされたこと
が気にさわるらしくついつい語気が高まる。
『第一回大会以後夏の甲子園に出ていません。なんとかもう一度出てほしいも
のですね。今の私の夢はそれだけです』自分が果せなかった夢の実現を後輩に
託す気持ちは年齢を感じさせない迫力が感じられた。
◎…三輪氏の思い出話は連綿と續く。【我が野球史】一冊の本が出来るほど
内容が豊富。全てをまとめて見て頂こうと思っていた矢先の他界だった。
三輪氏が二中の野球部時代のことを思い出して〈若き日の血〉をたぎらせて話
したのはこのときが最後だったろう。
|