○本校12對津山中學1 大正10年10月17日(月)六高
今日の佳き日を卜し愈々津山中學と優勝戰を行ひぬ。
我軍先攻。第一回一點、第三回梅田の安打と木谷の左中間本壘打に二點、第五回将積、梅田の連續三壘打、宇麼谷、稻田の安打等に五點、第八回敵失及び宇野の犠打に二點、第九回四球及び田中の安打に更に二點を増せしに對し、敵軍全く木谷の投球に封ぜられ三回小山中堅安打に出でて二壘を盗み二死後下山の投匍暴投に生還せしのみ。十二對一の桁違の戰績を以て悠々優勝す。
審判=尾崎(球)長崎(壘)兩氏。
斯て遠征の壮圖を果したる我等一行は記念撮影後直ちに在岡先輩諸兄の發企にかゝる祝捷會に招かれ會食の後或は談じ或は歌ひ又先輩の欣喜雀躍を見つつ時の移るを知らず。七時名残り惜しくも閉會。歸途大賀先生を訪れて在岡中の御厚情を謝し萬歳三唱し、市中を凱歌を奏しつゝ繰歩きて停車場に着。七時半の急行にて目出度く凱旋す。
神戸二中 102 050 022=12
津山中學 001 000 000=1
〔本 校〕 打得安犠盗三四失
數點打打壘振球策
2 将 積 42100020
3 梅 田 53211100
1 木 谷 52102001
7 宇 野 42013000
5 難 波 51001001
6 楠 見 20000033
9 宇麼谷 41202110
4 稻 田 50201002
8 田 中 51202100
計 391210212367
〔津 山〕
6 小 山 41211112
5 河 島 40000001
2 下 山 40100000
8 奥 40000000
4 甲 元 40000001
7 谷 原 40100000
3 田 淵 40000000
9 福 井 40000000
1 岡 田 40000000
計 361411114
△本壘打=木谷 △三壘打=将積、梅田 △残壘=本校8、津山10 △逸球=3
10陽会(大正11年卒)
金井 元彦 左翼
瀧川 勝二 一塁
金澤庸太郎 三塁
将積 一明 左翼
中田栄三郎
有利 秀一
宇野 庄治 左翼
田中 楢一 右翼
難波 秀雄 二塁
☆金井元彦氏 明治36年(1903)〜平成3年(1991)
大正11年
神戸二中卒、10陽会 |
明治36年
11月28日生まれ
大正5年
3月神戸市立大開第二尋常小学校卒
大正6年
神戸市立兵庫高等尋常小学校一年修了
大正6年
兵庫県立第二神戸中学入学
大正10年
兵庫県立第二神戸二中学卒
大正10年
第一高等学校文科甲類入学
大正13年
第一高等学校文科甲類卒業
大正13年
東京帝国大学法学部英法科入学
昭和2年
東京帝国大学法学部英法科卒業
昭和2年
内務省入省。宮崎県勤務
地方勤務を経て本省警保検閲課長
昭和20年
4月青森県知事
昭和21年
戦後公職追放を受ける
昭和30年
2月兵庫県副知事
昭和37年
兵庫県知事
昭和46年
参議院初当選。
行管庁長官
平成3年8月6日
脳梗塞で死去
金井氏は兵庫県知事時代〔兵庫県高校野球五十年史〕に〈草創期の思い出〉のテーマーで一文を寄稿している。そのなかから神戸二中に関する箇所を抜粋してみた。
『大正の中ごろ兵庫県は野球の先進地として、関西学院や神戸一中、少し遅れて神戸商業も出てきて、野球の名門校が肩を並べていた。
わたくしの母校神戸二中も強剛に数えられ、豊中で開かれた第1回の全国中等野球大会に県代表として出場したが、惜しくも1回戦で早稲田実業に敗れ、涙をのんだ記憶がよみがえってくる。
中学生のわたくしは、野球が好きだった。当時は、ようやく野球の用具が普及しはじめたころだったが、まだ捕手がプロテクターをつけるのが珍らしい時代だったし、グラブも今日のものとは形がちがっていて、手のひらで球を受けとめる……といったようなものであった。また、投打の技術も十分開発されていなかったし、作戦などもラフなもので気合いでぶつかっていく……というやりかたで戦ったものだ。
和歌山中学がアメリカからハンターというコーチを迎えて指導を受けたところ、たちまち2年連続して全国優勝をとげた。わたくしたちは第1回全国大会出場の伝統をつごうと大いにがんばったが、激戦地の県大会で勝ち抜くことはなかなかむつかしく、全国的にもレベルが高くなりつつあったので、兵庫県代表の制覇も至難なことだった。
まだ春のセンバツがなかったので、当時は夏の代表校を決める県予選大会と、秋の扇港野球大会というのがあって、神戸球界の二大年中行事として市民を沸かせたものだ。県予選は東遊園地で開かれていたが、熱戦に興奮してグラウンドへせり出してくる応援団を押し返すのに係員が大わらわになっていた風景が思い出される。そういった野趣おういつといった雰囲気もなつかしい。
中等学校も少なく、参加校も数えるほどしかなかった草分け時代を過ごしたわたくしにとっては、今日の高校野球の隆盛に隔世の感を抱くとともに、ファイト一本槍だった敢闘精神がいつまでも消え去ることなく、若い諸君に根づいてほしいと願っている』
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