大正元年(1陽会)1912年

NO6

☆菅 和三郎氏  大正2年神戸二中卒、1陽会
  大正2年第一高等学校入学
  大正 年東京帝国大学卒
  外交官として活躍

 神戸・楠公前の『菅園』の出身というので思い出になる写真がないか、また何かエピソード的な昔話が聞けないか−と平成1211月7日、土居光夫氏が訪ねたが、現在の当主は『叔父に当たる人ですが、私が生れる4年前に死去しているので詳しいことは知りません。その後家族はアメリカに移住し没交渉です』と話してくれたそうだ。
 そこで県立図書館でいろんな名鑑で探したが『菅 和三郎』の名前は見当たらない。
 一高時代の野球の記録はないかと調べてみると対三高戦に出場していた。

◇大正3年4月6日(月)午後2時20分開始、京都・三高校庭◇
 一 高 000 000 010 000 3=4
 三 高 000 000 100 000 0=1
       (延長
13回)
 〔一 高〕    〔三 高〕
(二)古田島   (遊)小 林
(三)村 井   (投)小 島
(中)井 上   (三)佐久間
(捕)平 山   (捕)小 西
(投)蘆 田   (一)鈴 木
(一)※菅    (二)吉 澤
(右)北 村   (中)森 谷
(左) 高    (左)牛 田
(遊)荒 川   (右)小 川
 

☆大正2年5月22日(木)神戸一中との最初の定期戰と見られる試合に4−2で快勝。  
 翌日の神戸新聞に『二中の野球部は産声をあげたと同時に一中とは兄弟の關係にあり、そのため創部当時二中は一中に対して“態度極めて慇懃”だった。
 しかし、菅が一高に入ったのを機に“啓蟄の動機を與えた”』と菅和三郎の一高進學が一中に対する一歩引いた気持ち−コンプレックスのようなものを払拭したと言っている。

☆また技術面でも大きな影響を及ぼした。一高との間に太いパイプが出来たのだ。夏休みになると一高の選手が二中にコーチに来て厳しい練習をしてチームの強化に寄与するようになった。お陰で二中は急激な実力アップを見せた。