巻頭文−5

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      「野球の心」次の世紀へ  

 

 

         毎日新聞社取締役副杜長大阪本社代表
                     出口 正作

 神戸二中・兵庫高校硬式野球部の歴史が始まった明治41(1908)年は、中馬庚がべ一スボールを「野球」と訳してから14年後、早慶戦開始から5年後という野球草創期でした。以来100年。白球に燃え、友情を育て、切磋琢磨を忘れずに1世紀の歴史を築い
てきたすべての皆様に深く敬意を表します。

 春夏の大会史にも確かな足跡が残っています。大正4(1915)年の第1回全国中等学校野球優勝大会に出場したことは、硬式野球部の次の1世紀をも照らし続けることでしょう。春のセンバツ大会でも4回にわたって甲子園の土を踏んでいます。

 戦争での中断を経て、再開
2回目に当たる昭和23(1948)年の第20回大会。河野一向井のバッテリーで臨んだ初戦では荒川投手を擁した早稲田実業(東京)を2−1で破って甲子園初勝利を挙げました。早稲田実業は夏の第1回で苦杯をなめた相手。当時の関係者の喜びはいかばかりだったでしょう。

 翌年の第21回大会にも連続出場。3点を奪われた桐蔭(和歌山)に対し、九回裏に2点を返す反撃を見せたものの惜しくも敗れました。昭和30(1955)年春の第27回大会には森滝義巳投手(後に立教大一プロ野球国鉄)を擁して登場。

 シーソーゲームの末、2−3で若狭
(福井)に敗れましたが「好感の持てるよいチーム」と、好機を巧みにつかむ試合運びが評価されました。NHKがカラー放映を始めた昭和41(1966)年の第38回大会でもスタンドを沸かしました。

 こうした先輩の活躍を受け継ぎ、次の世代に兵庫高校の「野球の心」を伝え、実を結ばせることが平成世代の役割となることでしょう。「偉大なる人格と不撓の意氣精神」は神戸二中・兵庫高校硬式野球部のバツクボーンを表す言葉とされます。

 困難な条件を克服し、周囲にも模範的な影響を与える、
21世紀枠の精神にも似た100年の伝統が、さらに若者たちの背骨を鍛えていくことを願ってやみません。
 

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