昭和55年(68陽会)1980年

NO1

[対県神戸高野球定期戦]
昭和55年6月7日(土)神戸市民球場
 県兵庫 001 000 001=2
 県神戸 000 000 000=0


〔評〕県神戸は1回、失策で走者を出したが得点できなかった。県兵庫は3回、3安打で1点先行。試合は1−0のまま終盤へ。9回県兵庫は三塁打に2安打をからませて貴重な追加点を上げた。県神戸は最後まで打線沈黙、昨年に続き完封負け。

【第62回全国野球選手権大会兵庫予選】
◎県予選登録メンバー◎
 部長 正井  彰
 監督 上月 賢三
 投手◎杉本 晶佳B
 捕手 伊勢田 晋B
 一塁 福島  隆A
 二塁 村田 賢泰B
 三塁 安田 慶虎B
 遊撃 中ノ原浩一郎B
 左翼 谷川 佳隆B
 中堅 中野 和也B
 右翼 田中 直弘B
 控  橋本 好幸A
 〃  稲山 智久A
 〃  佐藤浩一郎A
 〃  奥原 正彦A
 〃  三浦 文太A
 〃  山本 和盛A
 〃  野村 晃照B
 〃  大塚 浩久A

(神戸新聞)
昭和55年7月19日(土)明石球場
▽1回戦
 豊 岡 000 00=0
 県兵庫 505 0X=10

 (5回コールドゲーム)

 (豊 岡) 打安点
 D 西 藤 200
 C1 成田 200
 E 小 林 200
 A 高 橋 200
 G 白 藤 100
 B 羽 賀 100
 H 米 谷 210
 F 門 間 100
 @4 浜田 100
     計 1410

 (県兵庫) 打安点
 G 中 野 312
 D 安 田 111
 E 中ノ原 200
 B 杉 本 210
 3 橋 本 100
 H 田 中 211
 @ 稲 山 212
 F 山 本 222
 A 奥 原 200
 C 村 田 210
     計 1988

(豊)1210422
   振球犠盗失残併
(兵)1400020

 ▽三塁打=中野 ▽1時間10分

〔評〕県兵庫は1回一死後安田、中ノ原が連続四球、杉本の二塁ゴロはエラーを誘って満塁。ここで田中以下が3連打、外野手の失策も絡み5点。3回にも5安打を集めて計10点。豊岡は県兵庫・稲山を打てず1安打を放っただけで5回コールド負け。

昭和55年7月21日(月)神戸市民球場
▽2回戦
 加古川西 000 120 001=4
  県兵庫 000 000 100=1

 (加古西) 打安点
 D 立 岩 400
 F 木 東 301
 A 君 野 432
 B 竹 原 400
 H 岡 田 201
 E  畑  300
 G 植 田 210
 C 諸 井 300
 @ 村 田 300
     計 2844

 (県兵庫) 打安点
 E 中ノ原 410
 B 福 島 200
 H9 谷 川 100
 G 中 野 310
 H3 田中 410
 @ 稲 山 100
 1 橋 本 200
 F 山 本 200
 H 杉 本 110
 R 大 塚 000
 A 奥 原 100
 2 伊勢田 311
 C 村 田 320
 D 安 田 300
     計 3071

(加)2662190
   振球犠盗失残併
(兵)5242280

 ▽三塁打=君野 ▽二塁打=中野 ▽ボーク=稲山 ▽2時間20分

〔評〕加古川西は四回、幸運な先取点を挙げた。先頭君野が死球、竹原が送った一死二塁、ここで稲山がボークを犯しチャンスを広げたあと、岡田がスクイズを決め、ノーヒットで1点が入った。

 さらに五回には植田の遊撃強襲打を口火に無死満塁とし、稲山をKO。代わった橋本に木東がスクイズ、君野も左前に適時打、村田投手の出来からして決定的とも思える2点が入った。

 兵庫は村田の直球とカーブのコンビネーションのいいピッティングに決定打が奪えず七回、一死二塁から伊勢田の右線タイムリーで1点を返すのがやっとだった。

68陽会(昭和56年卒)
 杉本 晶佳    投手
 村田 賢泰    二塁
 安田 慶虎    三塁
 中原浩一郎    遊撃
 谷川 佳隆    外野
 中野 和也    外野
 田中 直弘    外野
 野村 晃照    外野
 伊勢田 晋    捕手
 柳沢 一恵    マネ
 歌代 郁江    マネ
 

☆村田賢泰氏 昭和56年卒、68陽会

 私たちが最上級生としてチームを発足させたのは昭和54年7月28日でした。当時、新しいチームを作ることへの意欲に満ちあふれていたことと、1年先輩たちが夏の県予選で20年ぶりの「ベスト8」進出した直後ということで妙な気負い(プレッシャーのようなもの)を感じていた記憶があります。

 新チーム結成後は例年に違わず上月先生のもと厳しい練習を積み重ねたのですが、私にとってそれからの1年間は実は空回りの連続でした。

 「主将、四番、エース」と言われながら、春の神戸高校との定期戦では負傷のため出場できず、さらに1年間の集大成というべき夏の予選では、1回戦の豊岡戦で右足肉離れ、2回戦は代打出場だけで、ほとんどチームに貢献出来ませんでした。

 当時のチームメートには迷惑をかけましたが、それもこれも今となってはいい思い出となっているのは私だけではない−と勝手に思っています。

 神戸高校との定期戦では連勝記録を延ばしたものの、雨天順延で試合は兵庫高校のグラウンドでやったこと。(やはり定期戦は市民球場に限る)センバツベスト8の強豪尼崎北と練習試合をやったこと。(私はダブルヘッダーの2試合とも投げ切った)県予選の取材で「ローレン」(廊練)が紹介され、だれが写真の前に出るかでもめたこと。

 ライト側に防球ネットが出来た。(お金は出してないが、あれは自分たちの時代にできたもの)など数々の思い出。そして私たちの野球部での活動は昭和55年7月21日加古川西に1−4で敗れて終わりました。

 社会に出て「伝統」「リーダーシップ」「勝負に勝ち続けること」の大切さを痛感し、野球部時代に培った精神と失敗した経験と反省をバネに現在を生きています。