昭和44年7月25日(金)西宮球場
▽2回戦
県兵庫 000 000 000=0
武庫工 101 002 02X=6
(県兵庫) 打安点 (武庫工) 打安点
C 児 島 510 F 新 野 300
H 坂 本 410 D 河 村 320
H 石 野 100 B 中 川 321
A 辻 500 A 太 田 311
B 塩 谷 200 G 吉 川 421
E 松 末 300 H 浜 西 211
G 三 村 310 E 加 登 400
F 山 条 310 @ 富 嶋 300
D 海 川 410 C 納 山 300
@ 住 川 310
計 3360 計 2884
(兵)3600121
振球犠盗残失
(武)933342
▽三塁打=河村 ▽二塁打=浜西、児島 ▽2時間8分
〔評〕攻めの“詰め”の巧拙が勝敗を分けた。武庫工は初回一死後河村が右翼線いっぱいの三塁打、つづく中川の左前タイムリーでまず先制。三回には一死後連続3四球とスクイズですかさず加点。六回にも先頭中川が三遊間突破、一死後吉川とのエンドランが成功して一、三塁。吉川二盗の時の相手送球が悪く中前へ、この間に中川生還。
吉川も三塁へ、つづく浜西のスクイズでさらに1点。武庫工は八回にも3長単打で2点を追加、勝負を決めた。
県兵庫は、四回一死後連安打が出たが併殺でつぶし、七回にも海川の三塁失と住川の右前打で無死一、二塁と攻めた絶好機も、石野がうまく中前へ打ちながら、中堅・吉川からの好返球で海川が本塁で憤死するなど、残塁12を記録する拙い攻めで武庫工・富嶋に完封を許した。
(昭和44年度優秀選手)住川光史
57陽会(昭和45年卒)
住川 光史 投手
辻 隆正 捕手
塩谷 滿 一塁
児島 博 二塁
山条 慶治 左翼
三村 譲二 中堅
川辺 康彦 マネ
昭和42年入学と同時に野球部に入部した時、1年生は30数人入部したように記憶しています。当時は3年生に甲子園に出場した方がいて、甲子園の話はよく聞かせてもらいました。
当時の練習は放課後から9時まで、雨が降れば練習時間が短縮されるので、授業中に雨でも降れば1年生同士喜び合ったものです。しかし上級生になるに従って1日の大切さが身にしみて分かるようになりました。
当時の思い出としては、高校も学園紛争の真只中で、3年の時に定時制の湊川高校との取り決めで午後5時30分以後は練習ができなくなったことです。大切な時に練習量が減ったことは戦力アップに大きな影響を与えました。
試合での一番の思い出は、3年の春季県大会の地区予選決勝で滝川と対戦したときのことです。相手が滝川ということもあり、また練習試合で1−4で敗れているので負い目を感じながら試合に臨みました。
ところが、投打とも好調で5回を終わって7−0、このままコールド勝ちするのではないかと思うほどの勢いでした。その後回が進み、8回で7−5まで迫られたところで日没で中断。日没コールド勝ちと思ったのですが、サスペンデッドゲームを適用され、後日、続行不能になったところから再試合ということになり結局サヨナラ負け。
その滝川が県大会で優勝、さらには近畿大会にも優勝したので、悔しさが倍増したことが昨日のことのように思い起こされます。
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