昭和21年(34陽会)1946年

NO1

〔対神戸一中野球定期戦〕 昭和21年 神戸市民球場
 神戸二中 4−3 神戸一中

[対神戸一中野球定期戦] 昭和21年9月21日 神戸市民球場
 神戸二中 000 000 203=5
 神戸一中 000 000 000=0

 

(二 中)  打安失 
 
5 長 島 301
 
8 茂 木 420
 
3 見 持 530
 
1 宮 本 530
 
2 芝 田 400
 
6 坂 本 402
 
7 大 西 200
 
9 河 野 500
 
4 半 田 320
 
    計 3510

(一 中)  打安失
 
8 谷 村 311
 
6  張  301
 
2 一 井 411
 
5 藤 後 400
 
7 入 江 400
 
1 鳥 飼 400
 
3 生 島 310
 
4 明 瀬 100
 
9 御 厨 200
 
    計 2833

 (二中)1 6 3 8 11 1
     犠 盗 振 球 残 併
 (一中)3 2 4 2 6 1

 ◇二塁打=宮本 ◇残塁=二中11、一中6

〔戰の跡〕重味ある直球の一中鳥飼、曲球を武器とする二中宮本両投手の絶妙なコントロールと相俟っての内外野陣の堅実な守備により白熱戦が展開された。前半二中よく攻め殆ど毎回走者を出したが鳥飼投手の力投と好守にはばまれ再三のチャンスを逸した。

 一方一中もよく走者を出しながら貧打と二中宮本投手の適宜の曲球に止めを刺され無得点のまま後半に入った。攻撃力に一日の長ある二中は七回二死後見持の遊撃後方のテキサス安打に端を発し、ついで宮本左中間に二塁打し、芝田の三匍を三塁手一塁へ悪投し、その隙に二者生還、一中は與へずもがなの二点を献じた。

 かくして優勢となった二中は精神的に余裕を持ってさらに九回2四球、3安打でダメ押しの三点をあげ一中に打ち勝ち快勝した。敗れたとはいえ一中の執拗な追撃敢闘は満場の絶讃を傳統の定期戰にふさわしい一戰だった。(構生)

【第28回全国野球選手権大会兵庫予選】
〈神港夕刊〉
 昭和21年7月21日(日)明石球場
▽1回戦
 神戸二中 010 030 6=10
 甲南尋常 100 000 0=1

 (7回コールドゲーム)

 〔二中〕  打安失     〔甲南〕  打安失
 5 長 島 420     8 文 野 401
 8 茂 木 410     9 伊 沢 100
 3 見 持 310     2 内 藤 310
 1 宮 本 410     6 松 村 304
 6 坂 本 410     1 久 代 110
 2 芝 田 420     4 酒 井 301
 9 河 野 300     3 廣 井 200
 7 大 西 421     H 岡 田 100
 4 半 田 210     7 田 所 300
               5 藤 井 201
     計 32111         計 2327

 ◇三塁打=芝田2、宮本、大西 ◇残塁=二中5、甲南6

《二中堂々の貫録》
【戦の跡】劈頭二中の一死満塁の好機を投勾で併殺して士気をあげた甲南は、この裏内藤の遊匍を松村右飛敵失により一点を先取したが、二回二中は中堅越三塁打で出た芝田を甲南三、本間に挟殺せんとし、河野の二塁進塁に手を出した三塁手の暴投で一点を返して四回まで凡打戦を続けたが、五回甲南の投手、遊撃手の鈍重さを睨った大西、半田のバント戦法成り、續く長島右前安打と内野手の拙守を混えて三点を挙げ、七回久代の疲れを見せるや宮本、芝田、大西の三塁打と3単打の集中打は誇るチームワークと宮本の健投と相俟って堂々勝利を収めた。

昭和21年7月25日(木)明石球場
▽2回戦
 神戸二中 600 000 210=9
 明石中學 300 000 000=3


 〔二中〕  打安失      〔明中〕 打安失
 5 長 島 310     6 赤 松 302
 8 茂 木 310     7 岡 崎 400
 3 見 持 500     3 人 見 200
 1 宮 本 420     1 石 川 401
 6 坂 本 501     5 大 川 502
 2 芝 田 510     2 中 井 422
 9 河 野 520     4 伊 藤 100
 7 大 西 200     9 永 井 100
 4 半 田 410     9 大 津 100
               8 木 岡 400
     計 3681        計 2927

 ◇二塁打=中井、宮本 ◇残塁=二中7、明中11

《二中強氣の勝星》
【戦の跡】
二中のトップ打者長島は第一球を右安打した。この強気が圖に當たって茂木のバントは内野安打となり、見持のバントは野選となって満塁。捕逸が出て明中守備陣すっかりのぼせ上ってさらに2失と2安打が重なって一擧六点の大量点を献じた。

 二中も宮本投手の制球乱れて三つの四球で無死満塁、遊匍失と押し出しの三点を許して乱戦を予想されたが、明中に打力なく、ここぞといふときに打てなかったので追撃を果たさずに終わった。打力に勝れた二中の勝利は當然だが、予想外の凡戦。12の四球、11の残塁は明中攻撃の拙さを裏書している。

〈神港夕刊〉
昭和21年7月27日(土)明石球場
▽3回戦
 神戸二中 100 000 111=4
 甲陽中學 015 000 00X=6


 〔二中〕  打安失     〔甲陽〕  打安失
 5 長 島 520     5 望 月 530
 8 茂 木 410     4 高 橋 521
 3 見 持 530     6 五十嵐 201
 1 宮 本 511     8 木 谷 310
 6 坂 本 300     3 岩 田 310
 2 芝 田 430     2 高橋稔 420
 9 河 野 420     9 吉 川 421
 7 大 西 430     7 安 部 400
 4 半 田 300     1 安 田 300
 4 田 中 100
     計 38151         計 33113

《敗れて悔なき二中》
【戦の跡】
二中は劈頭甲陽の2失と見持の三塁打に一点を先取。好調のスタートを切ったと見えたが、甲陽が誇る長打陣は、早くも二回裏二塁打、三塁打各一本で同点とし、三回には五本の安打を集中五点を獲得優勢を示した。

 しかし、傳統的粘りを発揮して二中は食ひさがり、盛んに安田投手を攻め立てたが、巧妙な安田投手は二中のこきざみな攻撃を最少限度にかわし、遂に二中は敗れ去った。のびのびとした甲陽の打線が叩き出した得点と、非力のやうに見えても度胸の良いピッチングに逃げ切った安田投手の功は見逃せないところであろう。
 

☆坂本正之氏  昭和22年神戸二中卒、35陽会
    昭和3年5月23日生まれ
    神戸商科大学卒
    三井物産、エフワン勤務

 昭和17年4月、神戸二中に入学、憧れの野球部に入部したが、戦火は日々激しさを増し1年余りで休部状態になった。

 昭和20年8月15日の終戦時は4年生だった。学徒動員のため学校工場に勤務していたが、戦争が終わって好きな野球が出来るようになると思えば居ても立ってもおれなかった。先輩達の尽力もあって早々と野球部復活の動きは始まった。準備は順調に進んだ。そして、筒井秀雄氏(21陽会)を監督に迎えて復部するに至った。といっても終戦時の混乱期、すべての物資が払底、當然野球用具もまともな物はなかった。

 それでも野球が出来る喜びは用具のことなど全く問題にしなかった。ただグラウンドで力いっぱいボールを打ち、追いかけるそれだけで楽しかった。

 翌昭和21年から夏の全国大会が復活することが決まり大きな目標が出来た。と同時に県内はもとより他府県の学校との交流試合が盛んに行われるようになった。
 敗れはしたがとりわけ印象に残っているのが浪華商との試合。浪華商はその年全国制覇しただけに強かった。また神戸一中との定期戦での快勝も忘れられない

 7月の県予選を控えて部員は当時の野球部長藤戸秀男先生(故人18陽会)のお宅と筋向いの田中教仁氏(37陽会)宅に分かれて合宿、高丸の神戸高商(当時)のグラウンドを借り練習した。終戦直後大変な時期にお世話になった両家のご恩には今も感謝の念でいっぱいだ。

 予選の下馬評はダークホース。1回戦は甲南中をなんなくコールドで破り、2回戦の相手は強敵明石中、これも9−3で圧勝。しかし、3回戦甲陽中に4−6で苦汁を飲んだ。

 私達は22年に卒業したが、戦後1年余り共に汗を流したチームメートが昭和2324年と選抜に連続出場したことは嬉しかった。卒業後も大学、会社生活を通して野球を続け、これまで健康に過ごすことが出来たのは“武陽野球”が原点であると確信し心から感謝している。