巻頭文

 

 はじめに待望久しい武陽野球部史の発刊を心よりお祝いいたします。奇しくも私が生まれたのが大正4年夏。第一回夏の大会に二中が県優勝を成し遂げ、豊中球場で早実と戦った年です。ユーカリ樹下で直接二中の野球に関わりを持ったのは昭和3年、大橋、池田芳諸先輩の時代で、入学早々一年生全員250人が当時まだスタンドのなかった明石球場三塁測のベンチ横で応援団として声をあげたことが懐かしく思い出されます。

 そのころ県下の中等野球は、一中、二中、関学、県商の四強時代から甲陽中、神港商、明石中、滝川中、育英商と変わっていたころでした。私在学中はちょうど明石中が楠本、中田の全盛時代で全く歯が立たず、無念の思いで過ごしました。
昭和
20年敗戦の混乱時、母校野球部の復活を目指して、県下各校のOB達が連盟を作り、OB大会を開いて道を開き、又佐伯達雄さんが全国高野連の組織を作られたときには陰ながらお手伝いもさせて頂きました。佐伯さんは全国高野連会長として高校野球の発展、指導に当たられた。

 かくして昭和21年には夏の大会が、翌22年には春のセンバツも復活しましたが、21年から24年まで監督を勤めた時代が私の野球生活のなかで、最も晴れやかな時代だったと思っています。当時の好敵手は新興の県芦屋それに三田中、一中、滝川中らでした。23年のセンバツで大正4年第一回夏の大会以来である全国大会出場に出場、あこがれの甲子園で30数年ぶりに早実を破り、続く北野中には暗しくも敗れましたが、プロ野球が現在のように盛んになる前で学生野球には大観衆が集り、そのころの甲子園球場は戦時中に金属を供出したため鉄傘はありませんでした。

 数万の大観衆が大阪、神戸から詰め掛け大阪の北野中、神戸の二中と二分されたスタンドの熱狂的な応援ぶりが今も脳裏に残っています。翌24年春に連続してセンバツに出場、そして30年、41年にもセンバッに選ばれましたが、夏は第一回以後一度も出場していません。夏の難しさは今更言うまでもありませんが、後輩の皆さん頑張って下さい。余談ですが私の軍隊時代、零下45度の北満(満州)の原野で夜勤務中『名も千載に…』の野球部歌を口ずさんで元氣をつけたこともありました。二中での野球は人生の支えになっていると言っていいでしょう。

最後に故人になられた多くの先輩諸氏、後輩のご冥福を祈りながら、新しい世紀を迎え永遠の武陽球児の健闘を期待して巻頭の辞とします。

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